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どうやって挫折したらいいのか? 夢をあきらめて無名のままで生きていく方法

文: 喜久井伸哉 画像:Pixabay

 

挫折は、めったに語られない。

夢や、希望や、達成の物語は、毎日、いくらでも、語られている。
ニュースや、メディアで目立っているのは、成功の真っただ中にいる人々だ。
アスリートでも、歌手でも、知識人でも、障碍者でも、マイノリティでも、そうだ。
一万人の競争者のなかから、一人がトップに立ったとき、その一人以外は、スポットライトを、浴びることがない。
残った大多数の人々は、望みどおりとはいかない、無名の生活を、続けていく。
夢や、理想の生き方からへだたって、不完全燃焼な人生を送っている人は、珍しくないはずだ。

少なくとも私が、その一人でいる。
野心の火種をくすぶらせながら、怠惰(たいだ)な暮らしぶりばかりを、続けてしまっている。

 

作家の内館牧子に、『夢を叶える夢を見た』(幻冬舎 2002年)という本がある。
そこでは、挫折的な日々を送っている人々に、「夢の不発弾」がある、と表現されていた。
若いころに「夢の爆弾」を抱えて努力していた人も、多くの場合、夢を叶えられずに、終わってしまう。
「夢の爆弾」が爆発せず、かといって、完全になかったこととして、きれいに爆弾の後処理ができるわけでもない。
「夢の不発弾」を抱えたまま、いたずらに年月が過ぎていく。
この本はノンフィクションで、プロボクサーになれなかった人や、作家になれなかった人に取材している。
(挫折についてインタビューするのは、やりづらかったことだろう。)

あるボクサー志望者は、「夢」という言葉では表せない、と言った。
「夢」程度の言葉では、淡く、甘すぎて、内情にうずまく怨恨を、言い表せていない。
著者は別の取材者との対話で、韓国語の「恨(ハン)」、という言葉を案出している。
人生がかかわる情念を表す言葉として、これはたしかに、「夢」の一語よりもふさわしい、と思う。

思い描いた理想の人生を求めながらも、失敗し、それでもあきらめきれず、再度挑戦し、それでもやはり挫折して、なお挑んでも望み叶わず年月が過ぎていく。
この、野望のような、執着のような、依存のような、亡霊のような何かは、「夢」という甘っちょろい一語には、不相応だ。
「挫折する」、といっても、たんに「夢をあきらめる」というのではなく、それまでつづけてきた生き方が、根こそぎにされてしまうような、深甚な憂いを起こすものだ。

 

 

文学紹介者の頭木弘樹は、そのめったにない肩書きを荷えるだけの、相当の読書家だ。
『絶望図書館』や『ひきこもり図書館』など、多くのアンソロジーを編んできた。

その頭木氏でも、挫折した無名の人の描かれている作品が、ほとんどない、という。
挫折者は一般人にすぎないため、物語の主役として、取り上げようがないためだ。
劇的な失敗があったわけでもなく、失意が文学的につづられているわけでもない。
ただの、無名の、挫折者こそが世の中の大多数なのに、ただの、無名の、挫折者の物語こそが、存在していない。

それでも、頭木氏はあるとき、『カンプノウの灯火 メッシになれなかった少年たち』(豊福晋著 洋泉社 2016年)という、プロサッカー選手になることをあきらめた人々に取材した、ルポルタージュを発見する。
頭木氏は、これこそ探し求めていた本だ、と歓喜する。
著書の一つのなかで語られているが、その反応の強さは、挫折した無名者の物語が、いかに希少かがわかるものだった。

 

どうやったら、うまく挫折できるのか。
SNSのある現代社会では、特に難しくなっているのではないか。
「ちょっとだけ成功する」可能性が、完全にゼロになることがないためだ。
ウェブで発信していくことで、少しの成功なら、手の届くところにある、と思える。
歌手志望や、タレント志望や、漫画家志望は、特にそうだろう。
広大なウェブ上だと、ちょっとだけフォロワーが増えるとか、ちょっとだけ賞賛のコメントが届くとか、その、「ちょっと」が生まれやすい。
いつか、世界のどこかにいる素晴らしい理解者と出会えるかもしれないし、ある日突然、目指す分野の関係者が、声をかけてくれるかもしれない。
「もしかしたら」、という希望が、雑草やカビのように、どこからでも、発生してきてしまう。

たとえるなら、一枚の宝くじを握っているようなもので、当たる可能性は、極めて低いのだとしても、それでも、可能性は可能性だ。
夢への活動をつづけていく限り、どれほど小さく弱々しいのだとしても、可能性もまた、つづいていってしまう。
ふとしたときに、新しい宝くじが一枚手に入る(ような気分になれる)のだとしたら、理想をあきらめる時機が、いつまでたっても、おとずれることがない。

アフリカのどこかのことわざで、『追ったからといって捕まえられるとは限らないが、捕まえた者は追った者だ』、という勇ましい格言がある。
追いつづけていれば、いつか巨大な獲物をも捕まえられるはずだ、という希望的な観測は、しかし、ときに夢を悪性にして、性根を腐らせてしまうことも、あるかもしれない。

 

一方、サリンジャーの小説の、『ライ麦畑でつかまえて』には、このような格言が出てくる。

『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小(ひしょう)な生を選ぼうとする点にある。』(ヴィルヘルム・シュテーケル)

曲解を含むが、ここでの「高貴な死」は、社会的な生活者としての自分を、失ってしまう暗喩として読める。
たとえば、学校や会社などで理想的な自分でいられなかったため、家に閉じこもり、社会的なつながりを避けること。
それに対して「卑小な生」は、ただ単に、一般的(ないし社会的)な暮らしを送る人として読める。
「卑小」と表現されているが、実際には至極まっとうな、成熟した生活者たち、といえる。
それは、「高貴な死」を選ぶより、はるかに常識的で、健全なものだと思う。
それでも、どうやら私はまだ、その成熟が、できあがっていない。
区切りをつけることができず、「夢」と言うにせよ、「理想」と言うにせよ、別の言い方をするにせよ、綺麗にあきらめる方法が、わからないままでいる。

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ 
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2024/01/31/170000

 

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