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時間は大切ではない 10年のひきこもり経験者が語る「コスパ」でも「タイム・イズ・マネー」でもない暮らしの教訓

文:喜久井伸哉


私はそろそろ、四十になる。
老人からすれば、まだまだ若者。子どもからすれば、老人も同然。
幼いころは、大人の男性の場合「おにいさん」か「おじいさん」かの、2分類くらいでしか認識していなかった。
30代、40代、50代それぞれの違いなど、精妙すぎてわからない。
それがいつしか、細かな年齢の違いを意識するようになった。
ぎりぎりで昭和生まれの私は、「平成生まれ」「2000年代生まれ」「ゆとり世代」「Z世代」など、ジェネレーションも気にかかるところだ。

 

平凡な話だが、年齢を重ねたことで、物事の見え方が変わってきた。
人生の標高が変わった、とでも言おうか。
たとえば、「家族」や「親子」の話題が出たとき、20代くらいまでなら、「子ども」の立場でばかり考えていた。
「子ども」として物事を認識し、「子ども」の立場から主張した。
しかし、年齢的に自分が「親」の立場になり、同世代の人々が子育てをするようになると、どうしても見え方が変わってくる。
「親」や「保護者」として考えることになり、議論も一筋縄ではいかない。
「学校」の話題も同様で、「学生」としてでなく、「教員」の立場も見えてくる。
利口になったかどうかは別として、目に入るものが増え、複雑化した。

 

 

年齢のこととなれば、「病気」や「衰え」に関する話題が定番だろう。
ネガティブな話になりやすいが、身体的な「衰え」も、どうやら悪いことばかりではない。

介護職員で、『シンクロと自由』などの著書がある村瀬孝生は、「衰え」のメリットを挙げている。
村瀬氏は、40代くらいまでは身体的な活力があり、テキパキと働いていた。
意図したとおりに動く健康な体があり、作業にスピードがあった。
しかし50代に入り、身体が意図に対して遅れるようになった。
介護職にあっては、その「遅れ」が介助をする相手の身体を受け止めることにつながった、という。

 このような感覚は二十〜四十代にはないものでした。五十代も中ごろになった体が感じえるものかもしれません。五十五歳を超えたあたりから、これまでとひと味違う体の変容を感じてきました。老いをより強く実感しています。
 これまで僕の体はスピードに溢れていました。なので、おおかたの行動や行為は勇み足になりがちでした。けれど、老いることで、どことなく滞りが生じていて、スピードが落ちています、まだ、残り火のような前のめりはありますが、確実にテンポが落ちています。最近はそのスピードの落ち具合が心地よいのです。やっと、地に足がついてきた感じです。
(伊藤亜紗・村瀬孝生著『ぼけと利他』ミシマ社 2022年)


私はこれまで、自分の意図の働きが、身体に対して「速すぎる」ことに悩んできた。
頭で「あれをやろう」「これをやろう」と意図しても、スピードがありすぎて、身体が着いていけない。
心身のバランスが整っている人なら、多様な活動に結びつき、多くの仕事をこなすことにつながるのだろうが、私はそうはいかなかった。
「あれもできない」「これもできない」と、心身がお互いを傷つけ合い、疲弊してしまう。
長年、意図と身体の不一致に苦しんできた。
心身が調和しやすくなるという意味でなら、身体の衰えは、私にとって希望になる話だ。

 

心理的な話では、ある高齢者の話が印象に残っている。
その人は、年を重ねたことで、世間的な束縛が薄れ、生きるのが楽になった、と述べていた。
学齢期や結婚適齢期など、それぞれの年代ごとに、どのように過ごしていくべきかの圧力がある。
しかし40代、50代を経て、その「圧」がだんだんとやわらいでいく。
何よりも、仕事(労働)の圧力が減ったのが大きい、という。
その人はもともと、「働くべき」とか「稼ぐべき」といった外圧は、気にかけないタイプの人だった。
それでも、定年の年齢を迎えたことで、世間的・社会的な労働のプレッシャーがなくなり、非常に楽に過ごせるようになった、と語る。
年を重ねることで初めて楽になるものが、たしかにあると思う。
これも、励みになる話だった。


私は近頃、「時間は大切ではない」と思うようになった。
「タイパ」や「時短」重視の現代では、おそらく賛同者が少ない人生訓だろう。
しかし、目先の1時間や1日を圧縮ないし省略することは、長いスケールにおいては、あまり意味がない。
仮に、AIでいくつもの仕事を手早くこなし、早送りで学習動画を視聴し、ダイジェストで映画を1本鑑賞(?)する生活を送っていたとする。
たしかに生活上の「時間」の使い方としては、効率的なのかもしれない。
だが、それはある意味では、夾雑物(きょうざつぶつ)を忙しく処理しつづけているような生活ではないか。
そのような人にとって、家事に必要以上の時間をかけたり、気になったお店に1日がかりで出かけたりすることは、時間の使い方としては、非効率にあたるだろう。
だが自分なりの「暮らし」を丁寧におこなっていくことには、まぎれもない価値がある。
「時は金なり(タイム・イズ・マネー)」の格言には反しているが、時間の使い方など関係のない、「暮らしこそ富なり」と言うべき豊かさがある。

 

それに、「時は金なり」の言葉にしても、元々の意味は異なっていた、という。
格言の意図としては、「金(生産)のために時間を無駄にしてはならない」、と伝えている。
だが『遅刻の誕生』(橋本毅彦・栗山茂久編 2001年 三元社)という本によると、この言葉のルーツは、紀元前4世紀までさかのぼることができる。
古代ギリシャの哲学者、テオフラストスが「時間は高価な出費なり」と言っていた。
これは「時間は金のように貴重だ」という意味であり、「金を浪費してしまうから時間をうまく使え」という話だ。
現代の「タイム・イズ・マネー」=「時間をうまく使って金を貯めろ」とは、まったく別の意味の言葉に行き当たる。
ただどちらにしても「時間」ほど根本的なものが、人生や人間と結びつかずに、「金」という、ある意味で世俗的なものと結びつき、比較対象として語られていることに注目する。

 

「時は金なり」は、「時は金程度なり(時間には金程度の価値しかない)」と読むこともできるのではないか。
もちろん金は大事だが、命に代わるものではない。
幸福を約束するものでもなければ、生きがいのある人生を送る保証にもならない。
金が比較対象になるような、消費者的・生活者的な意味での時間には、しょせん金と同程度の価値しかない、のではないか。

私には、いわゆる「ひきこもり」にあたる期間が10年ほどある。
20代のころは、「価値のある時間を失ってしまった」と、絶望に打ちひしがれていた。
「時は金なり」の観点で言うなら、貴重な時間を無駄にし、社会的に何も生産できなかった、という悔悟(かいご)に苦しんだ。
忙しく働いた人の10年は、経済的な生産の面では立派だ。
しかし「時は金なり」=「金は時なり(マネー・イズ・タイム)」の10年があったとして、それが自他を幸せにしていなかったならどうだろう。
文字通りの「タイム・イズ・マネー」。時は金でしかない、という猜疑(さいぎ)はないか。
過ぎ去っていった時間の長さだけでは、計れないものがある。
今の私は、時間が思っていたほど重要ではない、と感じている。
引きこもっていた歳月に対しても、丁寧に暮らしていくための素養が残されているのだとしたら、「たかが時間程度のものを失ったにすぎない」という裁定を下す余地が、思いのほかあるように思う。

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。