文・写真 ゆりな
新聞、テレビ、インターネット、SNS……
黒い文字は今日も広がり、人々の思考のすきまへ訴えかける。
文字は人々の脳の溝になだれ込み、徐々に染め上げ、そこに価値観を作り上げていく。
「知らない」ということは、価値観の狭窄をもたらし、視野の角度を固定化する。
「無知」の領域に誤った情報の種がばらまかれると、
そこには偏見という芽が育ち始め、
その芽は成長を続けた先に、無自覚に誰かを傷付ける斧へと形を変える。
人の体がそれを、基本的人権を奪う考え方の主導権として握ったとき
人は疑うことなく、その斧を人に降り下ろす。
私はこの繰り返しが、人の心だけでなく、社会をも停滞させ、蝕むと感じている。
ひきこもりに限らず、自分の存在を何かひとつの属性に「ひとくくり」にされることは、誰しもが嫌うことであろう。
そして、ひとくくりにされた途端に、くくられた人々は、その場所から抜け出すにも、
その人々の力だけで、縄を解こうとするのは極めて困難だ。
一度正しいと思った情報を頭の中で書き変えるにも、意識を割き、そのための時間も裁量も必要だ。
私たちの脳は0/100思考に頼りたがる。
人は、分かりやすく、画一化された情報に手を付けやすい。
全ての人の間でまかり通る考え方を探しがちになる。
そして、置かれた環境に慣れる性質を体に刻まれ、現状へ親しむ心理をもつ私たちは、
偏見というものを簡単に手放せるほど強くない。
偏見とは、
自らがそれにさらされる機会がなければ避けて通ることができる。
面倒を省き、カテゴライズするラクを覚えた脳は
目の前の「その人」を見ようとするためには時間がかかる。
しかしながら、
媒体を介在し、「人」の背景が恐怖で固められ、忙しなく広がっていくそれは
私の目に、伝えた先に息をする人間がいることを知らないように写る。
今日も世界を見て思う。
あなたが傷つけられた痛みはどこへいったのか。
いつかのあなたが「決めつけられた」苦しさはどこにいったのか、と。
人に傷つけられる痛みを知るあなたと
その痛みをもって、
人を、社会を、どこへ向かわせることができるか
問うていくことはできないのか 。
偏見と呼ばれるものが
どのようにして生まれ
どのように人々の心の中に育っていくのか
その過程を
閉じ込めた殻から丁寧に開き、
共に考えていくことが
私たちの一歩になるのではないか
「ひきこもりは、犯罪者予備軍」
「ひきこもるような人間だから犯罪を起こす」
この偏見は、何のために、生まれたのでしょうか。
この偏見は、誰が何のために、ばらまいたのでしょうか。
この偏見は、誰かのために、あるべきだったのでしょうか。
私は、自らの考えの中に偏りを自覚した瞬間に、
心に迫りくる罪悪感を
生活のなかで刻む心臓のリズムが早くなる実感を
消し去ることはできない。
報道に懐疑する目を
情報に精査する耳を
自己に省察する慧眼を
伝えるものの先に、人間がいることを
文字を書く手に、思いが載ることを
自分の感じた違和感を大切にした先に
あなたの論じることがあることを祈る。
川崎殺傷事件におきまして、被害に遭われた方、ご家族、心を痛める方々に、
1日でも早く平穏な日があることを心よりお祈りします。
執筆者 ゆりな2018年2月、ひきポスと出会う。「私はなぜこんなにも苦しいのか」ひきこもり、苦しみと痛みに浸り続け、生きづらさから目を背けられなくなった。自己と社会の閒-あわい-の中で、言葉を紡いでいけたらと思っています。