文・編集:中村秀治・尾崎すずほ・ぼそっと池井多
<プロフィール>
中村秀治 長崎県佐々町在住のひきこもり当事者。佐世保フリースペース「ふきのとう」利用者。東日本大震災後、宮城県でボランティア活動をし、その体験を書いた「おーい中村くん ~ひきこもりのボランティア体験記~」を自費出版。
尾崎すずほ 東京出身の元ひきこもり。現在は複数の仕事を掛け持ちする働き方を実践中。ひきポス7号より執筆に参加。ひきこもりUX女子会アベニュー運営スタッフ。
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ぼそっと池井多 中村さんとお会いしたのは、私が厚生労働省からの委託事業で佐世保の居場所「ふきのとう」にうかがった時でしたね。あの時は、居場所への一参加者であるにもかかわらず、中村さんにはいろいろ案内していただいて、どうもありがとうございました。
中村秀治 こちらこそありがとうございました。長崎県佐世保市までお越しいただき恐縮でした。「ふきのとう」を案内した後に、ぼそっとさんから僕個人にインタビューをしたいとお声をかけていただいて驚き半分嬉しかったです。
尾崎すずほ 私は、中村さんとは「はじめまして」ですね。中村さんのご著書を読ませていただきました。私自身の経験と重なる部分が多く、同じことを考えている方が他にもいたんだと嬉しく思いました。その辺りも含めてお話を聞かせていただけたらと思います。
中村秀治 拙著「おーい中村くん ~ひきこもりのボランティア体験記~」を読んでいただいてありがとうございます。よろしくお願いします。
教師の顔色をうかがうことに疲れる
ぼそっと あのときは、中村さんの個人的なお話をゆっくり聴く時間がなったのだけど、中村さんがひきこもりになった経緯を教えていただけますか。
中村 小学校6年生の頃に不登校になりました。思い返してもこれだというキッカケは無かったのですが、学校に通うことにプレッシャーを強く感じるようになったんだと思います。
尾崎 プレッシャーというと、具体的にはどのようなことに感じていましたか?
中村 今思えばプレッシャーは教師に対して強くありました。今でこそ体罰は自粛されてますが、当時は体罰は当たり前だったので、出された問題に答えられないと体罰を与えられたり、恫喝される時がありました。特に担任だった体育教師は廊下に響くほどの怒鳴り声で、自分が怒られてなくても心拍数が大きく感じるほどビクビクしてました。機嫌の良し悪しで怒る時もあったので、当時は意識してませんでしたが、常に教師の顔色を伺って疲れていたと思います。
尾崎 私も不登校経験があるのですが、私の通っていた学校も、体罰は日常的にありました。校則を守らなかったり、言うことを聞かなければ、体育教師が暴力で押さえつけていましたね。私自身は体罰を受けるようなことはそれほどありませんでしたが、目の前で同級生が叩かれているのを見るのはつらかったです。今は、面前DVは虐待と定義されていますが、まさに同じようなメンタル面へのダメージがあったのではないかと考えています。
中村 僕は、いわゆる「五月雨登校」というもので、不登校になる前からちょこちょこ休んでいました。久しぶりに登校すると、クラスメイトとどう接していいのかわからなくなっていました。生徒は休み時間になると、グループになって遊んだり話したりするものですが、それが出来なくなっていました。自分から話しかけられず、班活動でも発言せずによそよそしくなってしまったり、徐々に自分の居場所が無くなっているように感じていきました。学校に通うこと自体にプレッシャーがありました。
尾崎 不登校になったとき、ご家族の反応はどうでしたか。
中村 「学校を休みたい」と父親に話した時、父だけは頑として許さずに、ランドセルごと僕を家から放り出しました。ですが、小学6年生の頃に両親が離婚して母が僕を引き取ってから本格的に不登校になりました。母は学校に行くことを強要しなかったので、それが有り難かったです。
尾崎 中学校に上がってからは、どうなりましたか。
中村 中学校にもほとんど行かず、高校は夜間に授業を受ける定時制高校に入学しました。夜間学校では、以前のようなプレッシャーをあまり感じることもなく通うことができて、卒業して県内の企業に就職しました。ですが、職場での人間関係に悩んでしまい、わずか10ヶ月ほどで会社を辞めて再びひきこもりになりました。
原因を言葉にできない苦しさ
ぼそっと池井多 尾崎すずほさんの場合は、不登校のときご両親の反応はどうだったのですか。
尾崎すずほ 私も父には通学カバンとともに放り出されましたねー。それでも行きたくなかったので外から様子を伺い、家に誰もいなくなったのを確認して戻っていました。ときどき忘れ物をした父が帰ってきて見つかってしまうこともありましたが。
ぼそっと 「お父さん、忘れ物しちゃあ、ダメじゃない!」(笑)
尾崎 私は不登校になった理由には、いじめがあったのですが、どうしても親には言うことができませんでした。親の立場からすれば、なぜ当たり前のように皆が行く場所に行かないのか、ということが納得いかなかったのだと思います。
「なぜ学校に行かないのか」ということを、母はまるで刑事の取り調べのように問い詰めてきたのでつらかったですね。両親からすれば何とか学校に行ってほしい一心だったのでしょうが、逆効果というか、余計に関係がこじれました。
中村さんの場合は、お母さまの理解があったのは良かったですね。不登校になった理由として、いじめはなかったのでしょうか?
中村秀治 いじめはなかったです。僕のいた小学校には不登校児は珍しかったので、久しぶりに登校するとクラスメイトから「サボり魔」とからかわれることもありました。けれど、自分では不快には思わなかったので「いじめ」ではないのでしょうね。逆に話しかけてもらったのに、それに対して愛想笑いしかできなくて、それが申し訳なかったという気持ちがあります。「いじめ」という明確なつらさが見当たらないだけに、自分がなぜ学校がつらいのか理解できなくて、当時は混乱していました。
ぼそっと すべての人を納得させられる不登校の原因を示せないと、なかなか説明できなくて苦しいということがあるでしょうね。私は「不登校すらできない」環境だったので、不登校はしないで大学へ進みましたが、いざ大学を卒業するというときに、優良企業に就職の内定をもらって、ひきこもりになりました。就職の内定は、傍目には「成功」と見えてしまうだけに、それが原因で鬱になったことを周囲へ言葉にできずに、そうとう苦しみました。
尾崎 なるほど。言語化できる理由があればつらさの理由に説明がつきますが、「なぜ」という部分が分からないと苦しいですよね。
高校生になってからは、プレッシャーを感じることはなかったとのことですが、定時制高校という環境もあったのでしょうか?
つらさを感じるような出来事はありませんでしたか?
ローカル線のしんどさ
中村 定時制高校は夜間でしたので、四時限までの授業と静かな雰囲気が良かったのかもしれません。入学して半年ほどで大半の生徒は辞めていったので、生徒数も他校の普通科と比べて、多くはなかったと思います。
ただ、満員の電車通学が苦手でした。1時間に2本というローカル線なので、毎回同じ時間に同じ人が乗ってくる。逃げ場所のない閉塞感がたまらなく嫌でした。都会と違って、田舎の鉄道はワンマン運転で、必ず後ろのドアから乗って、降りる際は前のドアからなんです。なので極端な話をいえば、乗ってしまえば乗客全員と顔を合わせることになるんです。当時は軽い対人恐怖症だったのでしんどかったですね。
ぼそっと 都会の電車の場合、昼間とか空いている時間では、「せめて電車に乗っている間はくつろげる」という期待があるわけですが、本数の少ない地方では、電車の中こそが近所づきあいの場になってしまって、くつろげないというわけですね。
尾崎 満員電車は嫌ですよね(笑)。私も高校から電車通学だったのですが、毎日とてもつらかったです。ただ、東京だと短い時間間隔で電車が走っているので、中村さんが体験したような、同じ時間に同じ人が乗ってくる、という悩みはなかったですね。
中村 都会の電車には、都会のつらさがあるんだと思います。
尾崎 そうですね、痴漢もありますし。みんな時間に追われて殺気立っていますね。
知人で、不登校になった後に定時制高校に通った方がいるのですが、年齢層が幅広くて、グルーピングができにくいことがよかった、と聞いたことがあるのですが、その辺りはどうでしょう?
中村 僕が通っていた定時制は、男子ばかりでほぼ同学年でした。留年や編入をして1つ2つ年齢が上の方もいましたけど、特に気にならなかったですね。
尾崎 なるほど、では高校時代は電車のストレス以外は良い雰囲気の中で過ごすことができたのですね。
世間の人たちは仕事してるのに...
尾崎 就職した後、人間関係で悩まれてひきこもったとのことですが、その辺のお話を詳しく聞かせていただけますか?
中村 配属された職場では派閥がありました。派閥自体は珍しくないと思いますが、常にギスギスしてました。ある人に話しかけるにしても、その人といがみ合ってる人の顔色も伺わなければならない、といった具合に、個人同士のわだかまりを、他人同士でも共有しようとする感じでしたね。自分が入る前からそういう雰囲気だったみたいで、原因を探して解消することも出来ないほど複雑にこじれていたんだと思います。僕が退職する10ヶ月の間にも多くの方が辞めていきました。
尾崎 「同じ会社内で足の引っ張り合いをするのが当然のようだった」とご著書の中で書かれていましたね。休憩中に、ストレスで血の混じった胃液を吐く人もいたとか…。そんな会社であれば、誰であっても働き続けるのは厳しいですよね。会社を辞めてからは、すぐにひきこもったのでしょうか?
中村 そうですね。何もできなくなって家にひきこもりました。学校にも会社にも行けない自分は、社会に生きるのに向いてないと自覚しました。その後は、親や社会に対して強い罪悪感を持ちながら、ひきこもり生活が数年も続きました。
尾崎 「ひきこもり」には、とかく「家の中で楽をしている」という印象が世間的には持たれがちですが、多くのひきこもりは罪悪感を持ちながら苦しんでいますよね。家ではどんなことをして過ごされていましたか?
中村 働ける気力も無く、家ではテレビ見たり、ゲームしたりして過ごしてましたが、気持ちが休まることはなかったです。「世間の人たちは仕事しているのに、自分は何もできない」という焦燥感と罪悪感が強かったです。当時はしんどかったですね。
尾崎 世間から置いていかれるような感覚ですよね。私もひきこもっていた時は、テレビを見たりゲームをしていましたが、「それが楽しいから」というよりはつらい現実から逃げるための手段だったように思いますね。
・・・「中村秀治さん 第2回」へつづく
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