文・写真・ぼそっと池井多
「地域で支えるひきこもり」という考え方が日本全国で広がってきている。
その問題をシリーズで考えてみたい。
今回は第1回目である。
三層の他者
ひきこもりは多様であり、いろいろなタイプのひきこもりがいるけれど、
「他者がこわい」
という傾向だけはけっこう共通している。
それでは、ひきこもりはどういう人を他者として認識するのだろうか。
私は三つの層を考えてみた。
まずは、自分と同じ家に住んでいる家族のように「よく知っている人」が自分のまわりに他者として存在する。
その外側に、「近所の人」「地域の人」のように、「ちょっと知っている人」「日常的によく会う人」が存在する。
さらにその外側に、「地域外の人」が存在する。
これは「まったく知らない人」もしくは「ひごろ生活を見られることのない人」である。
自分の住んでいる地域を出て、都会の雑踏へ来たときや、知らない土地へ旅行に行ったときに出会う人々である。
この三つの層のなかで、真ん中の「地域の人」が、ひきこもりにとって最もこわい他者なのではないだろうか。
私などは、近所の人にできるだけ会わないようにひっそりと生活している。
散歩するのにも、近所のおばさんたちが立ち話をしている昼間のうちを避けて、誰も歩いていない夜中にこっそりと出かけていく。
私以外のひきこもり当事者の方に聞いてみても、やはりこの層の他者、すなわち「地域の人」が一番こわいと答える人が圧倒的に多い。
実感でいえば、不思議なことに、近所のおばさんはこわくて仕方がないのに、遠くの土地へおじゃまして、そこで同じ年齢層、同じ背格好のおばさんにお会いしても、まったくこわいと思わないのである。
それは私のなかに、
「近所のおばさんは私を知っているが、遠方のおばさんは私を知らない」
という認識があるからだろう。
ところが、この認識は正しくない。
よく考えてみれば、認識でなく錯覚なのである。
近所のおばさんであっても、ときどき私を見かけるというだけで、私という人間をぜんぜん知らないことが考えられる。
それでも、やはり 近所ー遠方、地域ー地域外という単純な対立軸によって、私は近所のおばさんの方をこわいと感じてしまう。
それは感覚だから、正しいの間違っているのと批判したところで即効的な生産性はない。それよりも、それを前提としてものごとを考えた方がよいのである。
もし、ひきこもりが「地域の人」が一番こわいと感じているならば、「地域で支えるひきこもり」という支援コンセプトは、
「ひきこもりはわざわざこの『最もこわい他者』に支えられなさい」
ということを意味するのだ。
普遍的な人間心理として
さて、「地域の人が一番こわい」という心理傾向は、ひきこもりだけに特有のものであろうか。
そうも思えないのである。
たとえば、人は余暇に旅行へ行く。
なぜならば、それは旅先という、近所や職場の人に会わない環境に身を置いて、解放感を味わうことが目的の一つであるからではないのか。
近所も職場も、「自分を知っている他者」がいるという意味では同じく、その人が住む「地域」なのである。
ところが、旅先には「自分を知っている他者」がいない。
そこにいる他者は、自分を知らない。
自分も、そこにいる人たちの生活や素性を知らない。
そういう空間に身を置くことで、日常から抱えこんでいる緊張感から解き放たれたいのである。
これは、ひきこもりが持つ「地域の人が一番こわい」という心理傾向を、ひきこもりでないいわゆる「ふつうの人」も微弱ながらも持っている、ということを物語っている。
「地域の人が一番こわい」のは、人間として普遍的な心理現象であると考えられるということだ。
なのに、なぜわざわざ「他者がこわい」と言っているひきこもりを支える場を「地域」に持ってくるのだろうか。
「それは支援者の都合にすぎない」
という可能性を、ここで疑ってみるべきなのである。
・・・第2回へつづく