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「家族のゴミ箱」ひきこもりの考古学 第3回

写真・ぼそっと池井多

 

文・ぼそっと池井多

 

ひきこもりは、ある日とつぜんひきこもりになるように見えて、じつはそうではない。

ひきこもりになるまでに長い過程と蓄積があるのだ。

過程の段階で何か状況が違っていけば、ひきこもりの「予防」とは言わない(*1)が、その後の進展はまた違ったものになるだろう。

このシリーズ「ひきこもりの考古学」とは、なぜ私がひきこもりになったかを考えるために、後から考えれば遠いつながりを持つ出来事や時代を、ひきこもりになる前の私の人生から発掘していくものである。

一昨年に第2回まで出させていただいた。

 

ひきこもりの考古学 第1回

https://www.hikipos.info/entry/2020/09/10/070000

 

ひきこもりの考古学 第2回

https://www.hikipos.info/entry/2020/11/12/070000

 

*1. 「予防」というと、まるでひきこもりが疾病か何かのようなので、私はその言い方を好まない。

 

その後しばらく筆を執る機会がなかったが、ぼちぼち不定期な連載として再開していこうと思う。

あくまでも私の個人史の発掘だから、あてはまらない人が多いだろう。しかし、

「あ、そういうことは私の人生にもあるかも」

「あ、そういうことは私の子育てで進行中かも」

などとピンと来る方がいらっしゃって、何かの参考にしてくだされば幸いである。

 

今回は「ゴミ箱」についての話だ。

 

 

 

 

モノはコトの影である

私はいわゆる「片づけられない人」であり、いわゆるゴミ部屋に住んでいる。

住んでいる本人はゴミだと思っていないのだが、それがまたゴミ部屋の特色でもある。

だから、どんなに好きな人でも自部屋に招くことができない。

整理・整頓・掃除が大の苦手ときている。

 

孤独死した方の部屋がテレビに写ったりすると、そこはたいていゴミ部屋だ。

「自分もやがてああなるのかな」

と思い、気分が滅入めいる。

 

孤独死と「片づけられない」という性質には、強い相関性があると思っている。

「片づけられない」対象は、手で触ることができ、体積も重さもある物体的なモノばかりではない。

手で触ることができず、体積もなく重さもない非物体としてのコトが「片づけられない」ために、結果的にゴミ部屋で孤独死するという場合が多いのではないか。

 

モノは、コトが反映している影にすぎないのである。

被害者ぶるつもりで言うのではないが、私のひきこもり人生は、あまりにも多くのモノとコトを原家族から押しつけられ、身動きが取れなくなってしまった結果から来ているのだ。

 

 

 

 

 

 

なぜ「片づけられない」か。

「捨てられない」からである。

なぜ「捨てられない」か。

要るものと要らないものを「決められない」からである。

 

母もやはり決められない人であった。

幼少期の私と母のやりとりを「スパゲッティの惨劇」と名づけたことは、すでに多くの場所で語らせていただいてきたので、ご存じの方も多いと思う。

それは、夕食が近づいてくるといつも繰り返されてきた、こんなやりとりである。

 

「晩御飯、なに食べたいの?」

と母が私に訊く。

そこで私がふつうの無邪気な子どものように、へたに「何々が食べたい」などと希望を述べようものなら、あとで大変なことになるので、私は希望を言わない。

注意深く、

「何でもいい」

という答え方をする。

すると母親は、

「『何でもいい』じゃわかんない!」

癇癪かんしゃくを起こし始める。

 

その後、殴る蹴るの身体的虐待へ発展していくのだが、今日はそこは省略。

いま注目していただきたいのは、この会話の始まりの部分である。

 

母は夕食に何を作るか決められない。

子も何と答えたらよいか決められない。

結局、母と子のあいだでお互いに「決められなさ」を相手に押しつけ合うところから「スパゲッティの惨劇」は始まるのであった。

 

 

 

 

 

嬉しくない贈り物

私が中学生になると、母による「決められなさ」の押しつけはもっと別の形を取るようになった。

たとえば、中学に上がり、英語が学校の教科に加わる(*2)と、母が学生時代に使っていた英語の辞書を私にくれる、という。

母が高校から大学に入ってからも使い続けていたらしい、手垢がついて側面は真っ黒で、角は擦り切れてボロボロになった辞書(*3)であった。

 

*2. 英語が学校の教科に加わる 当時、一般の学校では英語が履修科目に入るのは中学1年生からであった。

*3. ボロボロになった辞書 当時、電子辞書やスマホはなく、辞書は紙媒体でできており、指で頁をめくって目指す語彙にたどりついた。

 

 

それを母は、

「とても良いものをお前にあげる」

と恩を着せながら与えてくるのである。

たしかに他の中学生が使っている初級者用の辞書に比べると、母の辞書は格段に収録語彙も多く、語解も詳しかった。

そこだけを見れば、母のいうとおり「良いもの」である。

 

しかし、私は内心ちっとも嬉しくない。

私はたとえ収録語彙が少なくても、周囲のクラスメイトが持っているのと同じで、私だけが使う新品の、ページの紙がパリッと白くきれいな辞書がほしかった。

その方が、

「これがぼくの辞書なんだ」

と所有感が持てて、愛情が湧くぶんだけ使う気も出てくる。

だが、母を怒らせるとまた面倒なことになるから、表面おもてづらは「良いものをもらって嬉しい」という顔をするしかなかった。

 

なぜ母は自分の古い辞書を私にくれたのだろうか。

それは母が捨てられなかったからだと思う。

捨てることを決められなかったからだ、と。

 

私もやがて大人になってわかったのだが、若い頃に愛用した辞書といったものは、まるで自分が勉学した軌跡であり、今も自分の知識がそこに貯蔵されているように感じられて、なかなか捨てがたいものなのである。

だからといって保存しておいても、その先使うことはまずない。

卒業アルバムというのは、保存しておいても何十年もの一生のうち取り出すのはせいぜい数度だろうが、学生時代の辞書となるともっと少ない。

 

となると、捨てるでもない、捨てないでもない、その中間領域に移すのがよいということになる。

そんな都合のよいことは、ふつうはできないのだが、子どもに対して権力を持っている親ならばできる。

すなわち、「お前のためを思って」と子どもに「あげる」のである。

子どもは受け取らざるを得ない。

 

こうして要らなくなった愛書を子どもの管理下に移せば、親の本棚はスッキリする。

万が一またその辞書を見返したくなったら、子どもに命じて持ってこさせればよい。

辞書はほんの一例だが、一事が万事であり、このように母は、子の私をなにかと自分のバックアップとして使い、自分の「決められなさ」を私に押しつけることによって、なんとか自身の人生を成り立たせていたのである。

 

 

 

 

 

 

薬がなくなるのがこわい

一家の権力者である母がそんな具合であるから、しぜんに他の家族も母を見習い、私にゴミを押しつけるようになった。

私の原家族の歴史は複雑な転居の歴史を持つのだが、なかに訳あって父と私の二人だけで団地の3階に住んでいたという二年間がある。

その日々、父は酔っぱらって帰ってくると、自分が上がった階段の数を憶えていないのか、階下の家である2階のドアを開けようとして、ノックしたり、鍵穴に鍵を突っこんだりしてしまうことがあった。

2階には寡婦となったばかりの不幸なおばさんが一人で静かに住んでおり、深夜の父の狼藉ろうぜきをひどく迷惑がっていた。当然である。

すると、私が翌日、そのおばさんのところへ謝りにいかなくてはならない。

これも父が散らかしたゴミの始末であった。

ただしそのゴミは、モノではなくコトだったわけである。

 

 

いっぽう、父は胃薬や下痢止めや頭痛薬といった家庭用常備薬を、とくに必要でもないのに、事あるごとに買ってくる癖があった。

それでいて、それらの薬を使うことはほとんどない。

なのに、また買ってくるものだから、どんどん溜まる一方となる。

 

父が薬を溜めこんだ場所は私の部屋にあったものだから、定期的にそれらを整理して古い薬を捨てていくのは私の役目となった。

しかし私も、昭和中期の生まれであるせいか、薬という代物には何か得も言われぬありがたみを感じてしまって、「薬を捨てる」というのはどうも恐れ多い気がして、なかなかできないのである。

父もこの感覚を持っていただろう。しかし、父は「思い切って捨てる」ということの「決められなさ」を私に丸投げしているのであった。

 

私はときどき父に文句を言った。

「胃薬だったら、こんなにたくさんあるじゃないか!

なんでまた新しいのを買ってくるかな。」

すると、父は怯えたような声で、

「なくなってしまうのがこわいんだ」

という。

しかし、やがて父がその家を出て母との同居に戻った時、父が溜めこんだ薬の在庫はそっくりそのまま私の部屋に残していきやがった。

何のことはない、手元に薬がなくなっても、父はぜんぜん平気だったわけだ。

父の「決められなさ」のかたまりである薬の山を、私は内なる葛藤と戦いながら神経すりへらして全部処分した。

 

 

 

 

地球環境を持ち出す弟

私がそとこもりから日本に帰ってきたころ、入れ替わりで弟がアメリカに留学していった。

私のそとこもりは自分でやりくりしていたが、弟の留学は親の金である。

弟が使っていた部屋を私が継承して使うことになったのだが、そこには大量の男性化粧品が残されていた。

弟は私とは対照的に、見た目のオシャレに余念がなく、化粧品を山ほど買い集めていた。

 

それらを処分するのは厄介だった。

とくにヘアムース、ヘアスプレー、スプレー型デオドラントなど、圧縮されてボンベに詰められている気体は、当時まだ多くがフロンガスを用いていたからである。

フロンガスは地球をとりまくオゾン層を破壊する気体として、やがて日本でも1996年までに使用されなくなるが、その頃はまだ有害性が指摘されてはいるものの、店の棚にはフロンガスを使った安物と使っていない割高な品が並べられ、どちらを買うかは消費者の選択に委ねられていた。

私はとくに環境主義者ではないが、そとこもりの時代はシャンプーすら手に入らないアフリカにいたため、フロンガスを用いた男性化粧品など買ったことがなかった。

 

よく見ると、弟は化粧品にセロテープで小さなメモを貼り付けていた。

「これらの製品はフロンガスを使っているので、私は使いません」

私へのメッセージだろう。

あたかも自分の環境意識の高さを誇り、暗に他者にも意識の変革を促すかのような、啓蒙の臭みがただよう決然たる響きのある一文である。

 

しかし、それがいつもの弟のプライドでできた張子の虎であることは、兄である私はすぐにわかった。
また、こういう兄を持ってしまったから、弟も張子の虎にならざるを得なかったのだろう。

「もし使わないのなら、なぜこんな大量に買ったのか。

そういう主義主張があるなら、初めから買わなければよいではないか。

買った責任は自分で取れよ。

ぜんぶ自分で処分してから行けよ。」

私はそう言いたくなった。

 

それらはすべて封が切られていた。

ということは、買って、しばらく使って、やがて留学で家を離れることになり、税関を越えて持っていくわけにいかないので兄に処理を頼みたい、ということである。

兄が自分で使うなら使えばよいし、使わないから捨ててくれ、と。

もしそうならば、

「申し訳ない。これらはもう使わないので処分してください」

とお願いするべきなのに、私に対してコンプレクスのある弟は、

「私は使いません。環境意識の低いお前が使うなら、くれてやるから、ありがたく使ってもよいぞ」

という優位の姿勢を崩さない。

しかも、そこで環境保全という、時代の正義を引っぱり出してくるのであった。

 

もともと私は、自らの醜いエゴを正当化するのに、それぞれの時代の正義を持ってくる偽善者が大嫌いなのだが、このときも自分の弟ながら著しく不快になった。

仕方なく市の清掃事務所に電話をかけて訊いてみた。

「フロンガスの入ったボンベ型の、ほとんど未使用に近い化粧品が何本もあるんですが、これらはそのまま不燃物ゴミやカンの日に出していいですか」

「とんでもない」

という返事がかえってきた。

「ガス状のゴミは、ボンベの中身をぜんぶ使い切ってからビン・カンの日に出してください」

 

中身をぜんぶ使い切って?

私がこれだけの男性化粧品を使い切ろうと思ったら、いったい何年かかるのだろう。

70歳や80歳の爺さんになっても、これらヘアムースやヘアスプレーを使い続けなくてはならない。

そもそも、そのころまでつける先であるヘアが頭の上に残っているであろうか。

 

しかし、これらのボンベを捨てないわけにはいかず、捨てるためには中身をぜんぶ出さなければならない。

弟はまんまとフロンガスの化粧品というかたちで具象している彼の「決められなさ」を私に押しつけ、すでに高跳びして日本からの留学生の大量受け入れで儲けているアメリカの片田舎に逃げてしまっている。

 

「是非に及ばず!」

本能寺の炎に追い詰められた織田信長のように私は覚悟を定めると、それらボンベをすべて袋に詰め、家を出て、近くの公園に持っていき、スプレーの中身を片っ端から空中に噴射しはじめた。

からにするにはプッシュはせいぜい30秒ぐらいかと多寡をくくっていたが、思ったよりも一本のスプレーにははるかに大量の液化フロンガスが詰められているものであり、一本当たり10分近くもずっとスプレーの頭を指で押し続けていなければならなかった。

しまいには押している指がしびれてくるが、まだ中身がシューシューと出てくるのである。

しかも、一本ではなく、ボンベは袋の中に何本も何本もあるのだ。

私はうんざりした。

 

もしこれが何か楽しいことなら、たいした時間に感じないかもしれないが、

「なぜ、こんなバカバカしいことをやらなくちゃいけないのか」

と憤慨しながらやっていると、じつに長い長い苦痛の時間である。

 

いや、バカバカしいだけではない。

やましいのである。

 

何本も何本も、フロンガスが私の手により空中に放たれ、上空へのぼっていく。

それらはやがてオゾン層に到達し、それを破壊し、地球環境を攪乱し、美白を気にする人々の肌にシミやソバカスを作り、暇さえあれば日光浴をしている白色人種の肌に皮膚ガンを形成することだろう。

 

それだけではない。

化粧品のふくむ香料が、風に乗ってあたり一帯に拡散していく。

付近の住宅に干してある洗濯物に香りの粒子が付着していくと思われる。

とんだ近所迷惑ではないだろうか。

 

私は大きな葛藤をかかえこんだ。

その葛藤を解決する一つの声があった。

「もし自分が社会的に『善い人』ならば、社会に良いことをしなければならない。

しかし『悪者』ならば、良いことをしなくちゃ、というプレッシャーから逃れられるのだ」

この発想の逆転は、とたんに私に残りのフロンガスを空にするための暗い活力を与えた。

 

「そうだ。おれは悪者だ。

この近所を破壊し、地域を破壊し、社会を破壊し、世界を破壊し、地球を破壊する悪者なのだ。

おれは平穏で幸福な市民社会の敵だ。反社会的人間だ。」

 

己れを呪いながら、私はひたすらアメリカの銃乱射事件の犯人のようにスプレーの中身をいつまでも四方八方へ噴射しまくった。

 

 

・・・ひきこもりの考古学 第4回へつづく

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<プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。東京郊外のゴミ部屋在住。生活保護受給者。孤独死予備軍。犯罪者予備軍。エロオヤジ。精神科医 齊藤學(さいとう・さとる)によって「今までで一番悪い患者」に認定される。VOSOT(チームぼそっと)主宰。著書に世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

Facebook : Vosot.Ikeida  / Twitter : @vosot_just  / Instagram : vosot.ikeida

 

 

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