ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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未来は過去にある ~私がガチこもりから外へ出られたきっかけ~

Photo by PhotoAC,  Reprocessed by Vosot Ikeida

文・ぼそっと池井多

 

支援者と当事者の対話が断絶するとき

先日、喜久井伸哉さんが本誌で

「ひきこもり問題に関わる人々は今まで『未来志向』であることによってひきこもり当事者との対話を断絶させてきた」

という主旨のことを書いていた(*1)

私はそこで語られている演劇は見ていないが、その主旨に関してはまことに鋭い指摘だと思った。

 

*1. 喜久井伸哉「俳優座の『演劇8050』はひきこもりと向き合う重要なヒントを……」

www.hikipos.info

 

そう言われてみれば、

「こういう支援者はちょっと……」

と敬遠したい人ほど、やたら当事者に

「未来志向」

「前向きに」

「ポジティブ」

といった言葉をつかう傾向があることを思い出したのである。

 

ひきこもりは、たいてい過去の精算に時間がかかっているからひきこもっているのだ。

その精算をすっ飛ばして未来へ顔を向けさせられても、当事者は自分の人生の過程を一つ抜かして先のことを考えなくてはならないために、先々でいろいろ不具合を起こすことが本人にはわかる。

「ふつうの人」にわかっていただけるような上手な喩えが見つからないが、それはちょうど働いている人にとっては、確定申告をすっ飛ばして次の年度に進むようなものだろうか。

そのように未来志向の支援によって無理やり人生の次のステップへ進められても、その先で生きる人生は自分の足が歩んでいるものとの実感が持ちにくい。何かやり残した気がする。

支援者は自分の業績が一つ増えるから満足かもしれないが、いくら就労につながっても、当事者が自分の人生を生きられないのでは意味がないのである。

だから、私は未来志向はまっぴら御免ごめんこうむりたい。

 

未来を考える絶望と恐怖

これもまた最近の話だが、ある大きなひきこもり関連団体が、

「ひきこもりから、私たちの未来を考える」

というテーマで年次フォーラムを開いているのを見て、

「なんて怖いテーマなんだ」

と私は背筋がぞっとした。

 

ひきこもり当事者は、

「いま現在のことで手一杯で、未来のことなど考える余裕もない」

という人が多い。

そして未来は考えたところで暗いのである。

いまさら就労支援を受けて何か資格を取ったところで、その先に考えられる未来として、必ずその資格職によって勤め上げた経験年数が求められることになる。

すると、ひきこもらないで順調に人生を進めてきた、自分よりはるかに若く、先に同じ資格を取った人たちにはとうていかなわない。

そのように堪え忍びながらおこなう社会「復帰」なるものが、自分が思い描いた人生と比べて明るい未来とは思えない。

支援者は社会復帰させる立場だから、社会復帰させれば「明るい未来」ということになるのかもしれないが、社会復帰する方は「明るくない未来」なのである。

 

さらに、これから本格化するといわれているコロナ不況、拡大する格差社会、ウクライナ戦争に端を発するエネルギー危機、歴史的円安、連鎖的倒産、化石燃料の枯渇、地球温暖化、中央集権国家の強大化、財政や社会保障制度の破綻の可能性、そこへ持ってきて非現実的な「ひきこもり給付金」案などを考えれば、どこを探してもバラ色の未来は浮かんでこない。

かたや、子どもを持たず少子化社会の推進に加担してしまっている当事者としては、日本の経済構造に関わる問題にやたらと勝手なことをいうのも躊躇ためらわれる。

 

「ひきこもりは時代のカナリアである」

とよく言われる。

ひきこもり当事者は鋭敏な人が多いから、つい先の先まで見えてしまう。

すると、

「どこそこの自治体ではこんな居場所をつくりました」

「何度目のアウトリーチでついに当事者を引っぱりだしました」

といったほのぼのとした話の数々は、あまりに近視眼的でまるで天上のたわむれのように聞こえ、当事者の脳内に吹きすさぶ殺伐とした荒野とは広がる地平をことにするのである。

 

「どうやってひきこもりから脱出しましたか」

ひきこもりの問題を持つご家庭の親御さんと私がお話しさせていただくとき、最もよくお聞きする質問は、

「あなたはひきこもりからどうやって脱出しましたか」

というものである。

正確に応じようとすると答えに窮する。

私は今でもひきこもり当事者であり、当事者活動と最低限の買い物以外は外に出ず、地域の人たちとも没交渉のままひきこもっている。

だから、その質問に対する答えは、

「脱出してません」

になるのが正しい。

 

しかし、これでは意地悪になりかねない。

親御さんは、ひきこもっているわが子にどのようなきっかけを与えればその状態を脱するか、とわらをもすがる思いで私に訊いているかもしれないのである。

だから私は、そういった質問を受けたときは、

「あなたはガチこもりからどうやって脱出しましたか」

という質問に読み替え、いや、聞き替えてお答えしている。

 

ろうそくの火で暮らした4年間

私は33歳から37歳までの4年間、人生で3度目にしてまたしても外へ出られなくなり、それまでにも増してガッツリとひきこもった。

4日に1度くらい、ひと気のない真夜中に深夜スーパーのような店へ買い出しに行く以外、まったく外に出ない生活をしていた。

当時は、今のような当事者活動などまったくしていなかった。

もちろん誰とも話さない。

インターネットも今ほど使っていなかった。

 

そのころの私が恐れたものが、窓のカーテンの背後にゆらめく光であった。

 

なぜそんなやさしい光を恐れたのか。

カーテンに映る光がゆらめいたということは、窓の外で何かが動いたということである。誰かが通ったのだろう。

それは誰だか知らないし、知ってもどうせ知らない人だろうが、影がゆらめいたということは、その「誰か」が何がしかの用事のためにどこかへ向かって私の部屋の外を歩いていたということだ。何かの目的のために前へ進んでいたということなのだ。

そうやって、この世界に住む人々は、私以外みんな何かを「している」。

みんな、何かしらの目的に向かって人生が前に進んでいる。

ところが、ひきこもっている自分だけ何も「していない」のだ。

自分だけ何も目的もなく、どこにも進んでいないのだ。

こうして何もしてない自分だけを置き去りにして、世界は、人々は、どんどん前へ進んでいってしまう。

カーテンに映るやさしい光のゆらめきは、刻々とそんな残酷な通知をひきこもる私へ発していたのである。

ぼそっと池井多 講演用のスライドより

私は、もうカーテンの光のゆらめきが目に入ることに耐えられなくなった。

そこで家じゅう全ての窓に雨戸を閉めた。

家のなかは昼でも真っ暗になった。

 

しかしこれでは生活できない。

蛍光灯を点けると、光がチカチカとして、私の肌や眼を刺した。

そこで私はろうそくを灯した。

ろうそくならば、光が柔らかかった。

こうして私は、まるで洞窟に住む古代人のように、ろうそくの火だけを頼りに4年の間、家の中で黙々とひきこもっていたのである。

 

未来志向を捨てる

私がここまで深くひきこもったのは、今にしてみれば、それまでの自分が「未来志向」だったためである。

つねに

「先々のことを考えよう」

と思い、いつも

「次の一手を用意しておかなくてはいけない」

と考えていた。

 

「自分だけ遅れている」

「自分だけ無能である」

「このさき何をやっていいかわからない」

そうした焦りは、すべて未来志向からやってきた。

 

泥沼のいちばん底まで沈んだところで、私は自問自答を繰り返した。

―― このさき何をやっていいのかわからない。

「何もやらなくていいじゃないか」

―― このさき何もできない。

「何もしなくていいじゃないか」

―― 何もやらなくて、何もしなくて、ただ生きているだけでいいというのか。

「いい」

―― なぜそこで「いい」などと言えるのか。それではイヌやネコと同じじゃないか。

「イヌやネコと同じで、何かまずいのか。

 さてはお前はイヌやネコを馬鹿にしているのではないか。

 イヌやネコは、お前のように

 『自分だけ遅れている』

 『自分だけ無能である』

 『このさき何をやっていいのかわからない』

 『このさき何もできない』

 などと悩んだりしない。

 悩まないから、日々何かをしている。

 餌を食べ、散歩をし、生殖活動までやっている。

 人間さまであるお前が生殖活動などやりたくてもできないでいるのに!

 

 その点、イヌやネコはお前より優れているともいえる。

 フロイトを読んでみよ。

 人間と動物は『生きる』という原点において、いかに同じかがわかるから。」

 

 こうして私はフロイトを読み始めた。

 すると、未来に目を奪われることなく、過去をふりかえることがいかに大切かに目覚めていったのである。

 未来などというものは、現在の時点でいくら考えても、しょせん幻想でしかない。

 その点、過去はもうしっかりと確定していて信頼できる。

 過去をふりかえると、私が私であるわけがはっきりとわかっていった。

 それまでは探求をなおざりにしていたために、ぼんやりとしかわからなかったことが、はっきりと「わかる」という体験は、それだけで気分をすっきりさせるものであった。

 すっきり感は、その時を生きる力をもたらした。

 そんな力を少しずつ蓄えていき、もう未来などには目もくれず、夢中になって過去に向き直り、過去を発掘していくようになった。

 

 過去は豊饒ほうじょうな書物であり、そこには貴重な鉱脈がいくつも埋まっていた。

 それを落ち着いて読み解き、掘り返していくことで、おのずから次にやることが決まっていった。

 すると、私はいつのまにか雨戸を開け、部屋に光を入れ、家の外に出ていたのである。

 ……。

 ……。

 

 私が4年間のガチこもりから外に出た過程は、およそこのようなものであった。

 つまり、外に出られたきっかけは「未来志向を捨てること」だったのである。

 外に出たあと「次にやること」とは、人によってちがうだろうが、私の場合は家族との対話だった。

 このように未来志向を捨てなければ、私は深い泥沼から脱せなかったし、過去にも未来にもたどりつかなかったのだ。

 

ぼそっと池井多 講演用のスライドより

 

寄り添ってあげるべきは過去

私はあまり「寄り添う」という語を好まないが、どうせ支援者が当事者に「寄り添う」のならば、当事者が未来ではなく過去に向かい合うのに寄り添ってあげるべきだと思っている。

ひきこもり者は、たいていつらい過去を背負っている。

過去をじっくりと醗酵はっこうさせている当事者のひきこもり部屋という無菌室のなかへ「未来志向」「前向き」「ポジティブ」といった強毒性の雑菌を持ちこむのではなく、無菌室の外から醗酵作業をつづける当事者に寄り添ってあげる。……

そんな支援者が、私にもいたら良かったのだが、私の場合はいなかったので、過去と向かい合う作業はすべて孤独な営みであった。

しかし、これもまた邪魔をする者がおらず孤独だったからこそ、私は過去という書物を読み、その鉱脈を掘り返し、未来へ抜け出ることができたのかもしれない。

未来は、過去にある。

 

(了)

 

#ひきこもり #支援

 

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