今回は、斎藤環さんの『改訂版 社会的ひきこもり』を、ひきこもり当事者がレビューする。「ひきこもり」の定義を広めた歴史的な一冊は、現代の読者にどう響くのか。新たな発見に満ちた書評をお届けする。
斎藤環『改訂版 社会的ひきこもり』PHP研究所 2020年
新しくなった「社会的ひきこもり」の定義
2020年2月15日、斎藤環による『改訂版 社会的ひきこもり』が出版された。
98年に出た『社会的ひきこもり 終わらない思春期』以来、22年ぶりのリニューアルだ。
「ひきこもり」をテーマとした代表的な一冊で、特に公的な「ひきこもり」の定義は、本書によって広まったといっていい。
この改訂版で、「社会的ひきこもり」の定義は以下のように変わった。
六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの
以前は「二十代後半までに問題化」するという一文があったが、今回の改訂で削られている。
「若者の問題」と考えられていた「ひきこもり」が、現在では「8050問題」など、全世代で見られるようになったためだ。
そのため、当初の本のタイトルから『終わらない思春期』という副題もなくなった。
「ひきこもりシステム」
新たな知見をふまえて修正が加えられているが、本書の核となる「ひきこもりシステム」の解説は、現在でもそのままあてはめられるように思う。
人が健康な生活を営むには、個人・家族・社会それぞれの関係が安定している必要がある。しかし「ひきこもりシステム」では、それぞれの関係で悪循環が起きてしまう。
「ひきこもり」になったことで、当人は自分自身を責める。そのため、自分自身との内的な関係が悪化する。(内的な悪循環)
次に、家族が引きこもる個人を責めることで、個人と家族との関係が悪化していく。(個人と家族間の悪循環)
さらに、家族にとって子どもが「ひきこもり」になったことは世間体が悪く、社会的な援助に結びつかない。(家族と社会間の悪循環)
個人と家族との関係、家族と社会との関係など、それぞれが悪循環におちいり、「ひきこもり」が長期化していく。
このような展開が「ひきこもりシステム」であり、状況に応じた対策を練っていくべきだ、という提言が本書の構えとなっている。
一番の読者は「親」
私が初めて『社会的ひきこもり』を読んだのはずいぶん前になるが、正直なところ、当時は「精神科医」に対する警戒心が強すぎて素直に読めなかった。
定義の「六ヶ月以上」という区切り方をはじめとして、学者的な数字での理解のしかたや、マニュアル的な書きぶりが肌に合わず、あまり良い本だとは思えなかったためだ。
本書は一般向けに書かれた本であり、ベストセラーにもなった一冊だ。
そのため、私のような当事者でもスラスラ読めてしまうところがある。
だが今読み返してみると、本書が第一に想定している読者は、圧倒的に「『ひきこもり』の子を持つ親」だった。いうなれば斎藤氏のクライアントだ。
本書は「社会的ひきこもり」の基本的な説明から入る「理論編」と、家族が具体的にどうすればいいのかを論じた「実践編」に分かれている。
一般の人に広く浅く「ひきこもり」を伝えるためでなく、家族の実践の書として書かれているのだ。
「社会的ひきこもり」の定義も、統合失調症や強迫神経症などの誤診から引き離すための、臨床上の必要があったのだろう。
家庭内暴力の収め方が長々と語られるのも、臨床の現場で接してきた家族に向けて伝えねばならないという切迫感からと読める。
また、子どもに対して挨拶の声かけから始めることや、小遣いをどの程度渡すかなど、細かすぎると感じられるほど具体的な提言に踏み込んでいる。
「親はどうすればいいか」という視点が徹底しており、それが結果として、「ひきこもり」の理解に迷う「大人」たち全般にとっても、受け入れやすい構成になったのだと思われる。
「ひきこもり」を経験してきた私にとっても、親の「待つ」ことの大事さや「愛情」の意味など、対応の仕方にうなづけるものが多い。
本書の出版後には、吉本隆明や芹沢俊介等、思想家による「ひきこもり」論も出ている。
また、勝山実や上山和樹など、当事者による体験談も出ていたが、本書ほどの影響力は持ち得なかった。
そうなった要因は、「社会的」な目線で書かれた本書が、「『ひきこもり』を理解したい」という「社会的」な読者の要請とマッチしていたためではないかと思う。
本書の問題点
精神科医による本としては、「ひきこもり」を論じた最良の本の一つなのかもしれない。
しかし、改訂版で気になった箇所がいくつかある。
一つは、「ひきこもり」の女性がほとんど語られていないことだ。
著者による「改訂版まえがき」では「ひきこもり」の高齢化が語られているが、最新の調査で女性の割合が高いことや、「ひきこもり女子会」の活性化が起きていることはまったくふれられていない。
本書の終盤でも「ひきこもり」は80%が男性であるとし、性差の要因を学者らしい語り口で論じている。
この最後の箇所は現実と大きくずれてしまっているため、あらためて読みなおす意義を感じられなかった。
また、異性愛が「ひきこもり」の男性にとって重要であるという主張や、恋愛=異性愛という観点がそのままになっている。
これはLGBTQの概念が広まった現代からすると、配慮の足りない表現だと思われる。
私自身がゲイなので、(フロイト流の性的な心理学を笑いものにするのでなければ)旧時代の性規範の名残りは気にさわる。
本書は改訂版ながら注釈は一切つけず、文章そのものを加筆修正するかたちで出版されている。
しかしもう少し丁寧な解説を加えられたのではないだろうか。
もっとも、斎藤氏は今年1月に『中高年ひきこもり』を出し、3月にも『この世界の猫隅に』(「片隅」ではない)という評論集の出版が予定されているなど、多作な書き手だ。
物足りない読者は本書で立ち止まらず、新しい著書を読み進めるのが正解なのかもしれない。
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。8歳から学校へ行かなくなり、20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。/ツイッター喜久井ヤシン 詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』2/24発表 (@ShinyaKikui) | Twitter / ブログに別バージョンの書評を掲載予定。 http://kikui-y.hatenablog.com/
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