文・ぼそっと池井多
日本語にしかない「生きづらさ」
「生きづらさ」という語は、今や日本語の普通名詞として定着した感がある。
そして、外国語に訳せない。
そう言うと、たちまち、
「そんな馬鹿なことはないだろう。たとえば英語圏の人たちも、私たち日本人と同じように生きづらさを感じながら生きているはずだ」
と言われるかもしれない。
じつは私自身もそう考えていたのだが、その概念をぴったり表現する単語が、英語を含め外国語には見つからないのである。私の探し方が悪いのだろうか?
仕方がないので、英語だったら「difficulty (for/in) living」(生きることの困難)などと直訳するわけだが、「生き」+「つらさ」をそのまま置き換えているだけで、訳としては非常にみっともない。
それに、これでは「経済的に生活が苦しい」という意味に誤解されそうである。
そこで、訳すときはできるだけ「生きづらさ」を名詞として扱わず、
I have difficulty living.(私は生きづらさを感じている)
↓
I am having a hard life. (私はハードな人生を生きている)
などと言い換えるようにしている。
日本語といちばん似ている外国語は韓国語である。
しかも韓国の社会は、日本社会に息苦しいほど似ている。
ひきこもりや若者の自殺者も多いし、なによりも日本に輪をかけて出生率が低く、社会の少子高齢化が進んでいる。
韓国の若いひきこもり当事者たちと話すと、彼ら彼女らは日本の「生きづらさ」を何倍にも増幅した感覚を日々生きていることがひしひしと伝わってくる。
ならば、とうぜん韓国語にも「生きづらさ」に該当する語彙があると思いきや、これがないのである。
韓国語に精通している人によると、日本語の「生きづらさ」を表現しようとしたら、
というしかないが、これは明らかに日本語の「生きづらさ」とはちがうとのこと。
むしろ英語の difficulty in living に近い意味となるのだろう。
「日本語の『生きづらさ』だって、『生き』+『つらさ』ではないか」
という人がいるかもしれないが、それはちがう。
日本語ではすでに「生きづらさ」がひとまとまりの普通名詞となっており、さらにそこには「生き」+「つらさ」という意味要素の複合にとどまらないニュアンスが宿っている。
こうなると、どうやら「ひきこもり」や「生き甲斐」といった日本語の語彙が過去においてアルファベット言語圏で「hikikomori」「ikigai」といった綴りになったように、「ikizurasa」という国際語を送り出すしかないようにも思えてくるのだ。
「生きづらさ」は普遍的な感覚か
国際語として送り出すとなると、それが全世界の人々にどのくらい理解してもらえるかが気になってくる。
たとえば、日本語にしかない他の感覚的な語彙として「切なさ」と「
「切なさ」のほうは、外国の人にも理解してもらいやすい。たとえば、
the heart-squeezing emotional pain, for example, when you were in the first love
(たとえば初恋のときにあなたが覚えた、胸が締めつけられるような心の痛み)
などといえば伝わるのだ。誰しも憶えのある感覚だからだろう。
しかし「手弱女ぶり」は、外国の人にはなかなか理解してもらえない。それが日本の平安文化に依拠した感覚であって、彼ら彼女らには体験した記憶がないからである。
もし「生きづらさ」が「切なさ」のように言葉にされていないだけで普遍的な感覚であるならば、たちどころに理解してもらえるだろう。反対に「手弱女ぶり」のように、日本人だけが理解する感覚ならば、これはなかなか理解されないだろう。
さて、「生きづらさ」は普遍的な感覚なのか。
古代に見る「生きづらさ」
約2500年前、原始仏教では人間が宿命的に負う苦しみやつらさを「生老病死」と表現した。そのうちの「生苦」は生きていることから来る苦しみであり、現代の「生きづらさ」に最も近いと思われる。
生老病死を「四苦」と呼び、さらに
という4つの苦しみが加わって「八苦」と称されたわけだが、中身を吟味してみれば、追加された4つはいずれも四苦のなかの「生苦」のバリエーションに他ならない。
つまり、こんにち私たちが「シクハックしている」という時の語源である「四苦八苦」は、8つのうち5つまでが、すなわち62.5%が「生きづらさ」なのである。……というのは半分冗談だが、少なくとも私たちのいう「生きづらさ」が後半の4つの苦のようなものならば、それは現代日本に特有ではなく、有史以来、人間が宿命的に持っている普遍的な感覚だということになる。
だが、普遍的な感覚だとすれば、それはそれで新たな疑問を呼び起こす。
「生老病死」「四苦八苦」といった概念が生まれた古代インドでは、飢饉や疾病、戦争が日常的に起こり、たえず人々は苦しんでいた。だからこそ、そういう概念が生まれたのだといえる。
ところが、科学技術の発達によって飢饉も起こらなくなり、疾病も比べ物にならないくらい少なくなった現代において、わざわざ「生きづらさ」という語として「生苦」という概念がリバイバルを迎えているのだとしたら、それはなぜだろうか。
たしかに、今もガザやウクライナでは悲惨な戦争が進行しているし、貧困国では栄養失調で死ぬ子どもたちもいるだろう。しかし、「生きづらさ」という語が広まっているのは、そういう国々でなく日本なのである。
名詞「生きづらさ」の誕生
日本語に「生きづらさ」という新語ができたのは、1981年に社会福祉学者の加藤博史が論文の表題に「生きづらさ」という語を用いた(*1)のが
*1. 加藤博史, 1981年「街で患者として暮らすものの生きづらさ(主体的社会関係形成の障害と抑圧)P.S.W.機能」『精神神経学雑誌』83(12):pp808-810.
*2.藤野友紀, 2007年「『支援』研究のはじまりにあたって ー生きづらさと障害の起源ー」『子ども発達臨床研究』vol.1:pp45-51に拠る
1981年といえば私が大学に入り、親元を離れ一人の人間として生活し始めた年である。私の中身はまだまだ幼かったが、ある意味で私が「大人になった」年だったといえよう。その4年後に私はひきこもることになる。
とすれば、私自身がそういう言葉で認識していなくても、私はまさに「生きづらさ」の時代を生きてきたといえよう。私がひきこもったのも「生きづらさ」のためだった、と言おうとすれば言えてしまう。
しかし、加藤博史が「生きづらさ」と言い始めたとき、それはあくまでも「患者として暮らす」者が持つ感覚を指していたようである。
「患者として暮らす」者とは、どういう人たちであろうか。
「そんなの、病気の人に決まってるじゃないの」
といわれるかもしれないが、そう単純でもないのである。
この世界には、病気ではないのに医療によって囚われ、その結果「患者として暮ら」している人々もいる。不本意に監禁されてそういう状態に置かれている人もいるそうだが、厄介なのは自らの意志で病気でもないのに「患者として暮らす」人々の存在である。
たとえば「患者として暮らす」ことで自分本来の人生から逃げ、そのかわり主治医の病院経営に経済的に貢献している人々。主治医に自分の人生を売り渡した人々ともいえようか。そういう人々は、もともと何も病気を患っていなかったのに「患者になる」という病気を自分から患うのである。
私は長年、精神医療の現場で患者の立場からの実体験としてそういう人たちを数限りなく見てきた(*3)。けれど、そもそもなぜこういう人たちは自分の人生を主治医に売り渡してしまうのか。となると、やはりこれも自分本来の人生に向き合うと発生する「生きづらさ」のためだと言えてしまうのである。
*3. この点について詳しくは以下の小論を参照されたい。
ぼそっと池井多「精神療法は安全なのか -『薬を使わない』の落とし穴」日本評論社『いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり』所収, 2020年, pp.116-123.
こんな構造もあるから、「患者として暮らす者とは病気の人」と単純に割り切ることはできない。
しかしながら、一般に「患者として暮らす」者とは何らかの疾患や障害を持つ人々と考えてよいだろう。少なくとも加藤博史はそういう前提で書いている。そしてそういう人々が健常者中心の社会に置かれて抱く一種の不全感のことを「生きづらさ」と呼んだと受け取ってよいと思う。
「生きづらさ」は患者や障害者だけのものか
そのような「生きづらさ」観はそのまま30年ぐらい引き継がれていったようである。
2007年、藤野友紀は障害者支援を論じた上述*2のなかで、
「生きづらさ」が特定の人たちに対してもちいられている言葉である限り、それは人間が本来的に持っている苦しみや悲しみではない何かを指していると考えるのが妥当であろう。
と書いている。
「人間が本来的に持っている苦しみや悲しみ」とは、原始仏教でいう「生老病死」の「生苦」と同じ響きを持っている。
藤野は、「生きづらさ」がそういう普遍的なものではなく、社会環境のなかでマイノリティに追いやられたために障害者とされた人々などが持つ特有の感覚だとしているのである。
それはどういう人々か。
たとえば、車椅子ユーザーを考えてみよう。社会には車椅子を使わないで暮らしている人が
このような「生きづらさ」を解消するためには、あらゆる段差にスロープをつけたりすればよい。つまり、言い古された表現を使えば「社会を変えていく」ことによって解決が期待できる。
しかし、これは近年の日本人が言っていると私が認識している「生きづらさ」とちがうように思う。
それが数的な少数性に由来するか、いわゆる障害を持っているか、あるいは、何かの社会的マイノリティに属しているか、などなどといったことにまったく関係なく、いまの日本では「生きづらさ」を訴える人がたくさんいるのではないだろうか。
つまり、今や日本語の「生きづらさ」とは、障害者や患者やマイノリティへの属性とは無関係に使われている語だと私は思うのである。
それどころか、むしろその逆ですらある局面があると考えている。
つまり、障害や疾病やマイノリティ性といった既存のラベルでは自分が持っている不全感を提示できない人が、「生きづらさ」という語を得ることによってそれを提示できるようになっているのではないだろうか。
わかりにくいので言い換えよう。そのまま黙っていれば「健常者」や「マジョリティ」と見なされて、生きていることからくる苦しみを表現する資格を得られない一般の人が、この「生きづらさ」という語を使えば、
「こう見えても、私だって障害者や患者のように苦しいところがあるんだぞ」
と訴えられるようになる、といった言語状況が現在の日本にはあるのではないか、ということである。
それは、かつて「患者」や「障害者」のために作られた概念の汎化であるともいえよう。
「ひきこもり」概念と同じように、「生きづらさ」概念があまりに汎化することは数々の弊害をもたらすと思う。しかし、だからといって汎化という現象をないことにはできないし、そういう弊害を弊害として考察するためにも、2024年という現在において、いまさらながら「生きづらさ」を考察するのには、「生きづらさ」を障害や疾病といった既存のラベルを持つ人の感覚へと封じこめてしまってはいけないであろう。
そのように汎化した「生きづらさ」観に立てば、こんにちの日本で「生きづらさ」をまったく訴えない人は「生きづらさ」を持っていないのではなく、持っても言わない、あるいは感じないようにしている、と解釈することもできる。
すなわち、そういう人は「生きづらさ」というものを生きていくのに不可避的にかかえこむ感覚として耐え忍んでいるだけかもしれないのである。
「人間は生きづらいものなんだ。なのに、いちいちそんなこと言うもんじゃないよ。甘ったれるな」
というように。
ところが、このように考えてくると、「生きづらさ」は先ほど述べた原始仏教でいう「生苦」のように普遍的な感覚に戻ってしまうのだ。
普遍か特有か。この二項対立を軸としてグルグル回りが始まるとキリがない。
そこで私は、上記二つの「生きづらさ」の中間に、たとえそれが暫定的な概念に終わるとしても、もう一つの「生きづらさ」の領域を想定することによって考察を進めていきたいのである。
・・・いまさらだけど「生きづらさ」の正体って何だ? 第2回へつづく
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOTの公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
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