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【男性の生きづらさ】 男であることの困難とひきこもりについて ~男の外見が重要視されてきた時代に~

画:ぼそっと池井多 with Image Creator + Stable DIffusion 1.5

文・昼行灯

編集・ぼそっと池井多

 

近年「女性のひきこもり」がクローズアップされているが、男性のひきこもりの方も依然として声を上げるのに困難が伴っているのが実態だと思う。
このような背景を受けて、改めて「男性のひきこもり」の生きづらさを、私のごく個人的な体験を軸に語ってみようと思う。

 

非モテが実存的な苦しみに

私がひきこもったのは、大学生活のなかで、
「自分は生涯、異性と付き合うことができない」
という絶望感に囚われたからである。

自分でいうのも可笑しいが、中高一貫の有名私立校に通っていた私は、高校生までは空手道場に通い体を鍛えたりして外見も良く「文武両道」であった。
男子校では異性にめぐりあう機会がなかったが、大学で異性に「モテる」ことを期待し、満を持してある大学に入ったが、そこで期待はみごとに裏切られた。
「モテる」どころか、私の古風で生真面目な雰囲気が裏目に出て、「イマドキ女子」たちには気持ち悪がられたのである。

これで私は内心、深く傷ついた。以後「異性にモテない」ことは、私にとって「自分は何のために生きているのか」といった実存的な悩みに直結して、24年間向き合って生きている次第である。 

モテない男はどこにでもいるだろう。いや、世の男の大半は「非モテ」であるといっても過言ではない。
モテない男は風俗店で一時的な性的欲望を処理することが多いだろう。もちろん私にも性的欲望があるが、金を払えば誰でも性行為ができてしまう風俗という産業を利用して性欲を処理することを、私の場合は肥大したプライドが許さないのである。

 

母に「太った」と言われ

3年前、家族から「太った、太った」と言われ始めた。
言うのはとくに母である。母は体調が悪いと言って、私に八つ当たりする。ところが、医者に見せると母は実際にはどこも悪くなく、心気症(*1)を発症しているのである。

 

*1. 心気症 実際には病気ではないのに、どうも自分が病気のような気がしてならない強迫症状の一種。

 

確かにひきこもる前の私は体を鍛えていたので、引き締まった体型をしていた。その頃と比べると少し太ったことは間違いない。しかし、中年になればやや腹部に肉がつくのは普通だろうし、肥満の指標となるBMIも標準を少しオーバーしただけである。
これならば、誰が見ても「肥満」とは言い難い状態だったと思う。

なのに、母が私を「太った、太った」と言うようになったのには、別の要因が働いている。根底にあるのは、私がこの齢になっても働いていないからだろう。
両親は、私が働いて収入を家に入れないのにご飯を食べていることが気に食わないのだ。昔ながらの「働かざる者食うべからず」という価値観の持ち主なのである。

そのことには、ひきこもりである私自身がうしろめたさを感じていて、何とかしなければという焦燥感に常に駆られている。「ひきこもり」と「労働」の関連にも思う所があるのだが、それについては別の機会に論じたい。

 

さて、あまりにも「太った、太った」と言われたので、私は14年ぶりに体を鍛え始めた。毎晩25分のランニングを日課とするようになったのである。
もう3年以上続けている。雨の日も風の日も走り続けて、その結果78キロあった体重が63キロまで落ちた。

15キロの減量は、40歳を過ぎた私にとっては骨身にこたえるものであった。特に昨年の夏は猛暑であり、毎日走るのは相当しんどくて、私は精神的、肉体的ストレスのため歯をきつく食いしばる癖がついてしまい、その結果、歯が悪くなった。現在、歯科治療に通っているが、一向に歯が良くならない。

私がこのように過剰なまでに容姿に固執することを親も知っている。そのような人間に、太っていないにも関わらず、働いていないから「太った」と言うのは、たとえ親であっても許されるものではないと私は考えている。
言葉というものは、いったん言ってしまうと取り消すことができないものだ。そういう言葉は心を深く蝕む。

 

男性も外見で判断される時代へ

何故、これほどまでに以前より男が美を求められるようになったのか、私は理解に苦しんでいる。

私が大学に入った2000年頃から「イケメン」という言葉が使われ始めた。
通常、流行語の耐用年数は短い。しかし「イケメン」はひと時の流行語で過ぎ去ることなく、時が経つにつれていっそう市民権を得て、今では聞かない日がないくらいである。私はそこで過度の「ルッキズム」を見る。

2020年の国勢調査によると、生涯未婚率は男性28.3%、女性17.8%で、男性の方が圧倒的に高い。1985年以前は、生涯未婚率は逆に女性のほうが高かったのである(*2)。ここに時代の変化が読み取れる。

 

 

昨今、自分から「独身貴族」を選んでいる者などごくわずかであり、大半の男性は結婚を望んでいるのにできないというのが現状だと思う(*3)。
いっぽう女性のほうは恋愛に対して、たとえ消極的であっても、受動的であっても、男性よりも結婚はできる。この「男女の非対称性」こそ問題であり、多くの「非モテ男性」を生きづらくさせている最大の原因であると私は考えている。 
その構造について私なりに詳しく言及してみたい。
 
「イケメン」という言葉が氾濫しているのは、言い換えれば「男性のルックス」が必要以上に商品化されているということではないだろうか。
恋愛や結婚において、選択権は常に女性にあると私は考える。かつては「男性のルックス」など重要視されなかったのではないか。男は何よりも中身が大切であった。むしろ男性が外見を気にすることは、「カッコをつけている」ことであり、「女々しい」ことであり、恥とされたと記憶している。

しかし、バブル景気の頃から男性もおしゃれを気にし始めて、現代では「眉毛の処理」、はたまた「お肌のお手入れ」などすることは当たり前になった。この転換は、先に述べたように国勢調査で男女の生涯未婚率が逆転した時期に一致する。
こうして男性である私も「服装のセンス」を気にしなければ、これはもうまるで大罪を犯したかのごとく白い眼で見られるようになったのだ。

 

*3. ここから後は、編集者は著者と意見を異にする。
よく「編集者や発行人は著者と同じ意見だから編集・発行をしているのではないか」と勘違いする読者もいるようだが、すべての当事者が同じ意見であるはずもなく、異なる意見でも配信している次第である。

 

男性が恋愛に消極的になったのは、女性から選別されることに傷つくリスクを回避するためではないだろうか。

現代の女性は、男性に何もかもを求め過ぎる人が多くなったと思う。年収、職業、服装、顔、清潔感、話を聞いてくれるか、家事をしてくれるか、育児を分担するか、ケチくさくないか、などチェックポイントは枚挙に暇がなくなった。ジェンダー平等といいながら、デートのときは男性がおごるのが当たり前だと考えている女性にも会ったことがある。

求められるものが多ければ、それだけ人はは追いつめられる。
ひきこもり男性は一般に「恋愛弱者」である、というのが私の持論である。異論のある方もいるかもしれないが、常識的に考えて、モテる男性は果たして「ひきこもる」か、と考えていただきたい。
「リア充」と言うように、私生活が異性にモテている楽しいものであるならば、まずその男はひきこもらないと私は思うのだ。

もし私が、
「彼女さえいれば、自分はひきこもりにならなかった」
といえば、反論する方もいるだろう。
しかし、彼女ができた途端に、今まで動かなかったひきこもり当事者が働き始めたというケースもよく聞く。それほどに異性との交際がもたらす力は大きいと思う。

 

秋葉原無差別殺傷事件と「男の顔」

「ルッキズム」の根底にあるのは、男性の顔の商品化ではないだろうか。
かつて見合い結婚が主流であったころは、女性にとって男性の顔など重要事項でなかったらしい。見合いの席で初めて相手に会って、
「彼の顔を見てショックを受けた。しかし、誠実に働いてくれそうなので、その場で結婚を決めた」
などと語る女性が非常に多かった。
現代ではおよそ考えられないことである。

2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大は、自らを「不細工」と称して、インターネット上の掲示板で仲間たちと交流をしていた。この事件は多くの自称評論家たちによって様々に解釈され、「格差社会による貧困問題」「非モテ」「親子の確執」などのキーワードが飛び交った。
しかし、どれもこの事件の核心に迫ることはなかったと私は思うのである。

 

「加藤智大は、自分のことを不細工とは思っていなかった。実際に彼女がいた」
など真偽が定かでない情報が流れたこともある。
しかしいずれにせよ、容姿をネタにして笑いが取れる風潮そのものに病理があるのではないか。

加藤智大自身が、ルッキズムという病理に蝕まれていたことはほぼ間違いないだろうと思う。昭和時代にも似たような無差別殺傷事件がいくつも起こったが、犯人の男たちは顔を話題にしたことなど私は聞いたことがない。秋葉原無差別殺傷事件についてはこれ以上深掘りしないが、ここでも言えるのは、昔に比べて男性が自らの顔をはるかに気にする世の中になったということだ。

 

わが青春はいずこに

私はもうすぐ43歳になろうとしている。しかしいまだに恋愛を諦められずに、自らの容姿を過剰に気にして、毎日歯を食いしばってランニングを続けている。

傍から見れば、「イタイおじさん」にしか見えないのは充分に分かっている。それでも人間の幸せとは、恋愛をして、結婚をして、家族をつくり、子どもを育て、その子どもに死を看取られることにある、と思えてならないのだ。たとえ、家族の在り方が大きく変わっていく時代にあって、古い価値観と一笑に付されようとも、やはり私はそう思うであろう。

無かった青春、体験する前に終わってしまった青春に、中高年のひきこもりである私は日々慟哭どうこくしている。

 

(了)

 

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