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【 いまさらだけど「生きづらさ」の正体って何だ?】第3回 無差別殺傷事件から読み解く

画:ぼそっと池井多 with Adobe Photoshop

 

文・ぼそっと池井多

・・・第2回からのつづき

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「生きづらさ」と無差別殺傷事件

このシリーズの前回、第2回は「生きづらさ」という日本語ができた1981年から、就職氷河期が到来した1993年までの「生きづらさ」の内容を比較してみた。1980年代の「生きづらさ」は、こんにちの「生きづらさ」とはある意味、反対の内容であった。
今回は1981年以前の「生きづらさ」へ筆を進めるに当たって、無差別殺傷事件という視点を導入してみたいと思う。

なぜ無差別殺傷事件なのか。
それは私が、「このような犯罪は加害者の内部に蓄積された『生きづらさ』が爆発して発生する」と考えているからである。
このような私の捉え方は、
「無差別殺傷犯を起こすような者は、もともと精神を病んだ狂気の人間だったのだ」
という考え方とは立場を異にする。
逆に、
「どんなにふつうの人間でも、ある一定の条件下で『生きづらさ』が蓄積していけば、やがてそれは爆発し、その形態は無差別殺傷事件という凶悪犯罪となりうる」
という立場である。

よく「加害と被害はコインの裏表」などといわれる。
「被害者に回りこむ」という行為はえてして見苦しい。世間には、
「誰だって人生はつらいんだから、自分だけ被害者づらをするな」
という無言の圧力がただよっている。その圧力には一理も二理もあると思う。

しかし、被害者が被害者づらをするまいと歯を喰いしばるあまり、本人が被害を語らないまま被害性が本人から流れ出てしまうと、それは往々にして他者への加害という結果となる。無差別殺傷事件などはその極みだといえよう。


無差別殺傷事件が起こるたび、私の中には矛盾する二つの共鳴が起こり、その振動が交差するところで衝撃がとめどもなく増幅されていく。それは、「被害者になっていたかもしれない自分」と「加害者になっていたかもしれない自分」という二つの共鳴である。


被害者となった無実な市民が、その時刻に事件現場を通りかかったのはほんの偶然にすぎない。ゆえに、それは私であったかもしれない。この共鳴が「被害者になっていたかもしれない自分」である。

いっぽう、追い詰められ、鬱積した抑圧を爆発させて、ああいう事件を起こしてしまうかもしれないという危機感は、若いころからずっと私も持っていたものである。無差別殺傷事件をニュースで見るたびに、私はまるで自分の分身が起こしたかのような戦慄をおぼえた。この共鳴が「加害者になっていたかもしれない自分」である。


共鳴は、悲鳴でもある。
「ほうっておくと自分もそんなことをしでかしてしまうかもしれない。それほど自分は追い詰められている。私に被害性があることを認めてくれ。そしてそれが蓄積され、爆発する前に助けてくれ」
というSOS信号である。

 

小松川事件と永山事件

1958年、東京都江戸川区にあった朝鮮人部落(*2)の住民、李珍宇イ チヌという定時制高校生が見ず知らずの女性に対して性犯罪ならびに殺人を行なった。世にいう小松川事件(*1)である。この年、私はまだ生まれていなかったのだが、この事件はのちに私に長く関わってくることになる。

李珍宇はあらかじめ自らの犯罪を予言するような小説を書き、新聞社の懸賞に応募していた。加害者は高い知性を持ち合わせた18歳の少年だったわけである。
そのため、この事件の深い原因は在日朝鮮人を差別する日本社会の構造にあるとして、多くの知識人(*3)が李珍宇の弁護に立った。そのなかに、のちに私の大学時代の主任教授となるS先生がいた。
知識人たちの活動は在日問題に光を当てたが、李珍宇の量刑を軽くするには到らず、李珍宇は拘置所の中でカトリックに改宗し、やがて22歳で死刑が執行された。

 

やがて1968年、永山則夫事件(*4)が起こる。

北海道の田舎出身の19歳の青年が米軍基地からピストルを盗み出し、それを使って全国各地で無関係な市民を連続的に射殺して逮捕された。裁判の過程で、永山は劣悪な家庭環境に育ち、東京に集団就職してからも方言でいじめられた過去が明らかにされたため、これは貧困で教育もろくに受けられない、抑圧された下層階級による犯罪であり、社会が起こしたものと解釈されるようになった。

永山は拘置所のなかで独学し、厖大な量の当事者手記や小説を書いて、そのうちの一つが新日本文学賞(*5)という権威ある賞を受賞した。私の師匠、S先生も新日本文学会に属していた。

受賞を機に、秋山駿や加賀乙彦といった著名な作家たちが、永山則夫を一人の「作家」として処遇すべく彼を日本文藝家協会へ加入させようとしたが、同協会の理事会は「彼は犯罪者である」という理由から入会を拒否した。
そのため、
「それはおかしい。文学とはもともと犯罪と紙一重のものだ」
という立場をとる中上健次や柄谷行人といった作家たちが自らも日本文藝家協会を脱退するという事件に発展した。

永山則夫への死刑判決は「永山基準」(*6)と呼ばれるものを生み出した。永山は1997年に48歳で死刑執行された。最後まで激しく抵抗したため、絞首刑であるにもかかわらず遺体は血みどろだったといわれている。(*7)

 

*1. 小松川事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/小松川事件

*2. 朝鮮人部落:現代でも主に西日本においては被差別部落の問題が残っているが、昭和時代には日本のもっと広範囲でその問題があり、こんにちでいう在日コリアンの方々が居住しているエリアを「朝鮮人部落」などといった。この註釈は歴史的な事実として説明しているものであり、なんら差別的な意味を内包していない。

*3. 知識人:「知識人」の定義は当時から人によっていろいろであった。現在はメディアの発達により誰でも発信できる社会になったため、「知識人」という概念がぼやけてきて近年はあまり使われなくなってしまったが、本記事では今でいう「専門家」「コメンテーター」だと思っていただいてよい。

*4. 永山則夫事件 一般的には「永山則夫連続射殺事件」「連続ピストル射殺事件」などともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/永山則夫連続射殺事件

*5. 新日本文学会 機関誌が2004年に廃刊となり、新日本文学賞はもう現在はない。

*6. 永山基準 日本の刑事裁判において死刑を選択する際の量刑判断基準。 1983年に最高裁判所が永山則夫に対し差戻し判決を言い渡した際に提示した傍論に由来する。以後、この基準は日本の死刑判決に広く影響を与えている。

*7. 坂本敏夫『死刑と無期懲役』ちくま新書, 2010年

 

加害者からの疎外

1981年、大学に入った私は東京で独り暮らしを始めた。それはすなわち母親から離れられたということだった。
しかし長年、母親から受けた虐待はすでに私の性格を隅々までむしばんでいた。自分の悪いところを何でも母親のせいにしようとは思わないが、自分という人間を客観的に語ろうとすれば、私の場合どうしても母親からの虐待という事実を抜きにすることができない。
そのため、独り暮らしを始めてからも、私は能力がないくせに虚栄心ばかり強く、根拠のない自信に満ちていて、またそれをプライドと強弁するような鼻持ちならない若者であった。

私は大学で主任教授となるS先生に出会う。S先生は、ようやく私の人生に現われた信頼できる大人であったので、さっそく私は父親像を投影してしまった。
私には、あまり実の父には認められたいと思った経験がなかったが、S先生にはどうしても認められたいと身を焦がして願うようになった。途中がどんなに過酷でも、結果としてS先生から「よくやった」「それでいい」などと承認の言葉をもらえれば、私はすべてが報われる気がした。それは私にとっての恋愛対象である女性から優しい言葉をかけられるのとは、また別の魔力を持っていた。

私はS先生にこう言ってほしかった。
「そうか。君はひどい家庭環境で育ったから、そんなひどい青年になってしまったんだね。かわいそうに。君は悪くない。実績がないのに認めてほしいという虫のいい青年であるが、それは君の責任ではない。これから変えていけばいい」

ところが、S先生はけっしてそう言ってくれなかった。S先生はいつも私から距離を置き、眉をひそめて高みから私を眺めているようだった。そしていつも責任には厳しかった。

そのため私は、つねにS先生からこう言われている気がしていた。
「かつて私が弁護した李珍宇は、生まれながらにして在日朝鮮人というハンディを背負っていた。だから追い詰められ、あんな犯罪をおかしても、まだ弁護の余地があった。
永山則夫もそうだ。彼は日本人だったが、貧困層に生まれ育ったというハンディがあった。だから承認できる。
そこへ行くと君はどうかね。日本に生まれた日本人で、経済的にも困らない階級の出身だ。そのうえ親御さんは君に中学受験などさせて、多額の教育費を使ってくれた。
君は五体満足に生まれ、健康な身体を持っている。君には何もハンディがない。それでそんな生き方をしている。だから私は君を承認しない。軽蔑あるのみだ」

S先生に睨まれると、私は自分が李珍宇や永山則夫といった無差別殺傷犯たちにも遠く及ばない、ひたすら恥ずべきくだらない人間であるように思った。こうして私は凶悪な加害者たちからも疎外されたのである。

私は泣きべそをかいてS先生にこう言いたかった。
「ぼくが在日朝鮮人や被差別部落の出身者じゃないから、先生はぼくを承認してくれないんですね。もしそうであるなら、ぼくは在日朝鮮人になりたい。被差別部落出身者になりたい。だって、先生に認めてもらいたいから」

さすがに、これを実際に口に出していたら大きな問題になったことだろう。
S先生のほうにも、今だったらアカハラやパワハラに問える発言もあったが、私はそういう選択を好まない。ハラスメントとして処理してしまうことで、見失われる領域に宝が埋まっている気がするからである。

S先生に承認されないままに、私は悩み続けた。
「私がそれでも李珍宇や永山則夫に共鳴するのはなぜだろう?」
「社会的ハンディがないのに、それがある李珍宇や永山則夫に共鳴してしまう私は、生まれながらにして人間が悪者にできているだけなのか?」

「生きづらさ」という語彙をまだ持たなかった私は、いつなんどき私を犯罪に駆り立ててしまうかわからない精神の中の黒い鬱積をS先生に説明することができず、そのもどかしさに身悶えしながら20年余りを過ごしたのである。

 

大義名分なきテロリズム

私が最後にS先生に会ったのは2005年である。
そのとき私は40歳を過ぎていたが、まだS先生に認められたい一心で、S先生が大学を退官後に講義をしているカルチャーセンターに通っていたのだった。しかし、最後までS先生は私に理解や承認を与えることはなく、冷たく訣別する結果となった。

そして2008年、秋葉原無差別殺傷事件が起こったのである。
まさに「被害者になっていたかもしれない自分」と「加害者になっていたかもしれない自分」という二つの震央から波動が伝わってきて、私は暗い衝撃に打ちのめされた。

被害に遭われた方の無念や遺族の方々の悲しみは筆舌に尽くしがたいことだろう。しかし、それらは当然のこととして本記事では触れない。以下のことは私が加害者の行為を支持する意図で書くものではない。

 

加害者の加藤智大は、「しつけ」と称して虐待をおこなう母親のもとで二人兄弟の長男として育った。その境遇は私も同じである。
彼はこんなことを書いていた。
「親が手直しした絵を学校に出して賞をもらい、親が書いた作文で賞をもらい、悪いのはいつもみんな自分」
こういう体験も私と同じだった。

加藤智大は母親に主体を剥奪はくだつされていた。母親の感情のゴミ箱でもあった。しかも当時は、専門家たちのあいだで母と娘の親子葛藤は語られても、母と息子のそれは存在しないことになっていたため、そういう葛藤に苦しむ息子は出口がなかった。
加藤智大は自分を自分の手に取り戻したいとあがいたあげく、不器用にもあのような人生になってしまったのだと私は思う。彼は2022年に死刑が執行された。

加藤智大は、李珍宇のように民族差別を持ち出すでもなく、永山則夫のように階級闘争を語るでもなく、オウム真理教のように宗教で外表をコーティングするでもなかった。自らの凶行に何ら社会的な大義名分をまとわせようとせず、彼のテロリズムはなんら正当性のないなまのまま血だらけの手づかみで私たちの眼前へ突き出されたのである。

それはたんに加藤智大に知性がなく、知識人や文化人がよろこんで飛びついてくるような社会的な用語を使いこなせなかったせいだろうか。私にはそうとは思えない。

それでも専門家たちは、あいかわらず彼の犯行の原因を「非正規雇用」「派遣労働者」といった社会的・階級的な概念に求めることによって、なんとかこの事件を社会問題として論じようとした。けれども、彼が獄中で著した手記(*8)を読むかぎり、彼は当事者としてそういう専門家たちの解釈に精いっぱいの異議を唱えているように読めるのである。

たとえば加藤智大はこのようなことを書いている。文中、( )内と太字は編集者による。

 
(ウェブ上の)成りすまし(投稿者)のおかげで掲示板上の私の存在は抹殺され、荒らしのおかげで掲示板には誰もいなくなり、私の「命綱」は切れました。
もし、私に何か問題があって関係を失ったのであれば、それは私が悪いのですから、仕方ありません。しかし、今回は「失った」のではなく「奪われた」のです。もちろん、成りすましと荒らしに、です。それが許せませんでした。「しつけ」をしなくてはいけません。
加藤智大『東拘永夜抄』批評社、2014年、p71

 

このような文章には、専門家たちがかまびすしく主張していた「非正規雇用」や「派遣労働者」は出てこない。しかし、社会に暮す健常な市民たちがこんな論理を受け入れられるはずもない。自分の犯罪は母親の虐待のせいだ、恨む者には「しつけ」をしてやった、などといえば、それはいったい何を言っているのかわからないように市民には聞こえるはずである。
ところが加藤智大も、そういうことは重々承知のうえで筆を進めているのであった。彼はこうも書いている。

 

これは幼少の頃の親、特に母親から受けた養育の結果だということになりそうですが、このように書くと、人のせいにしている、と批判されるのでしょう。もし私か母親とそれ以外の何かのうち、自分で母親の教えを選択して受け入れたくせに「母親のせいで」などと主張するなら、それは批判されても仕方ありません。
加藤智大『解』批評社, P64

 

私は、遅くとも小学1年生の時にはもうこの考え方による行動を起こしていますから、これも幼少の頃に母親から受けた養育の結果だということになりそうです。別に、母親に責任転嫁しようとしているのではありません。私は母親が嫌いだということはなく、母親をおとしめようという意図もありません。ただ、自分を客観視すると、それ以上でも以下でもない単なる事実として、そのような結論が出てくるものです。
加藤智大『解』批評社, P68
 

こういう点こそは、私が先ほど申し上げた、
「被害者が被害を語らないまま被害性が本人から流れ出てしまうと、それは往々にして加害という形をとる」
ということなのである。

しかし案の定、加藤智大自身も予想していたように、これらの吐露は理解されなかった。以下は、被害者の遺族の方が死刑判決の前日に新聞に語った言葉である。

 

1審判決後、被告は著書を出版し、ネットでのトラブルや母親の虐待などが事件の背景だと説明した。「独りよがりの被害妄想を抱いているだけ」に見える。

毎日新聞 2015.02.01 
秋葉原無差別殺傷:2日上告審判決 遺族「心から謝罪を」
http://mainichi.jp/select/news/20150201k0000m040073000c.html
(viewed on 2015.02.05)

 

人間の内的世界とは、正直であればあるほど「独りよがり」であることを免れず、しかも幼児的万能感と被害妄想のコンビネーションで形成されているといっても過言ではない。したがって、このように見られるのは仕方がないし、ましてや被害者の遺族の方ともなれば、これはもっと当然であるといわなくてはならない。

しかし「独りよがりの被害妄想」と片づけたときに捨て去られる部分に含まれているものに関して、私は何も考えずにはいられない。

 

さらに2019年、川崎市登戸通り魔事件(*9)が起こり、やはり加害者の岩崎隆一は自らの犯行の意図をなんら社会的に正当化することなく私たちへぶちまけた。
事件発生後もうすぐ5年を迎えるが、加害者がその場で自裁して裁判が行われなかったためか、あのころ日本列島を震撼させた衝撃はどこへやら、すでに風化してしまっている感すらある。

 

*8. 加藤智大は獄中で『解』『解+』『東拘永夜抄』『殺人予防』(いずれも批評社)と4冊の本を書いている。

*9. 川崎市登戸通り魔事件https://ja.wikipedia.org/wiki/川崎市登戸通り魔事件 

 

無差別殺傷事件の原因の変容

このように見てくると、無差別殺傷事件の発生原因と解釈されるものが、戦後80年ほどの間にしだいに変容してきたことがわかる。
学生運動が盛んだった1960年代、また政治テロが横行した1970年代ごろまでは、民族差別や階級闘争といった政治思想的な解釈が盛んであったものの、次第にそれは薄まっていき、非政治的な概念である「生きづらさ」から捉えようという風潮になってきたといえるのではないか。

私にいわせれば、李珍宇も永山則夫も加藤智大も岩崎隆一も、それぞれの中に鬱積してきた「生きづらさ」が爆発して、無関係な市民の命を何人を奪うという凶行に走ったことに大きな違いはない。
ただその「生きづらさ」が、李珍宇の場合は「民族差別」という語にまとめれば人々に伝わりやすく、永山則夫は「階級差別」といえば、加藤智大は「非正規労働」といえば、岩崎隆一は「ひきこもり」といえば、それぞれその時代の人々に伝わりやすかったために、そういう語が原因のようにメディアで語られたのにすぎないように思うのである。

しかも、そう語ったのは加害者本人ではないのだ。事件が起こってから当事者ではない人々、すなわち専門家や知識人がそれぞれの時代の大衆に受け入れられやすいニュース用語で意味づけをおこない、それをメディアに流したのである。

李珍宇や永山則夫の場合は、まだ専門家と当事者という新しい階級対立が意識されていなかったためか、専門家からの意味づけに便乗するように、自らもそのような解釈で犯行を捉えなおしていったが、私などは当時から彼らの文章を読んで違和感をおぼえていたものである。
「それは、権威ある知識人たちにそういうふうに言ってもらえるようになったから、社会への "通り" をよくするためにあなたもそう言い始めただけであって、ほんとうの動機はもっと奥に別なものとしてあるんじゃないの?」
という違和感である。

李珍宇から半世紀後、加藤智大は専門家からの意味づけに抗うようになった。

 

このように「生きづらさ」というものが、「在日」や「貧困層」や「派遣労働者」といった、社会でマイノリティとして認知されている概念との紐づけを拒否してきたことは、「生きづらさ」の真のすがたを見据えるために有益で重要だと思う。

その反面、もし「生きづらさ」というものが、たとえば富裕層にも貧困層にも、どの社会集団に属する人間にも等しく生じるという結論になると、本シリーズ第1回に述べたように、「生きづらさ」は人間に普遍のものということになる。

すると、それはそれで困る人が出てくるはずである。
なぜならば、まず「生きづらさ」という概念が汎化すると、誰でも生きづらいのだから「生きづらさ」を訴えた方が勝ちという状況になり、発信力に劣るほんとうの弱者が「生きづらさ」を訴えられなくなるというパラドックスが発生するからだ。

さらに、結論だけを述べて、
「無差別殺傷事件を起こすのは、特定の社会集団ではなく生きづらさである」
といってしまうと、法律学でいう「過度広汎性ゆえに無効」と似たような状況が生まれ、それはわざわざ指摘する価値のないことだと勘違いされてしまうであろう。

 

・・・いまさらだけど「生きづらさ」の正体って何だ 第4回へつづく

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<筆者プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOT公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に
世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

詳細情報 : https://lit.link/vosot
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