文・ ルシアン・クエイリュー
翻訳・註解 ぼそっと池井多
ひきこもりと存在
ひきこもりは存在しない。
ひきこもりは日本語の「自分をある所へに閉じ込める」といった意味の「引き籠もり」から来ているわけだが、文字通りに解すれば、ひきこもりは存在できないのである。
なぜならば「存在する」とは、「自分を現す」「自分を見せる」「自分から出てくる」という意味のラテン語の動詞 ex-sistere から来ているからだ。
ひきこもりは存在を逃避するか、存在を還元不可能な最小値にまで減少させる。じっさい、存在を放棄することはそう簡単ではない。僧、隠者、自殺者、狂人、詩人など多くの人間たちがそれを試してきた。
存在は主張する。
しかし、ひきこもりは存在の外にあるものとして主張しない。というのは、存在している個人はひきこもりであることに失敗するからだ。人は存在から撤退することはできない。いったん存在してしまったら、彼はもはやひきこもりではない。 存在はひきこもりと折り合いをつけることはできない。
心理学者やジャーナリスト、あるいはフランスの「ひきこもり」と呼ばれる人たちが、文字通り、語源学的、文化的、社会学的に理解できないこの言葉を、何の疑問も持たずに、反発を抱くこともなく取り上げているという事実は、知的要求の低さを示している。
ジャーナリズムの体たらくは言うまでもなく、心理学でこの語が使われていることは、フランスにおける科学や医学の研究のあり方を憂慮させるものである。
異国の言葉の魅力を利用して、社会的、経済的な名声を得ようとする輩はよくいるものだ、と人は考えることもできる。漠然とした語彙を使って相手をひれ伏せさせようとすることは、特にラカン(*1)などがよく用いる戦略である。
*1. ジャック・ラカン(ジャック=マリー=エミール・ラカン 1901 - 1981) : フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持っており、「フロイトに還れ」(仏: Le retour à Freud)というスローガンを掲げ、フロイトの大義派(仏: École de la Cause freudienne)を立ち上げた。一方で、ドゥルーズ、ガタリなどポストモダンの哲学者たちから父権的であるとして批判を受けている。
「ひきこもり」と呼べる行動はいくらでも見いだすことができる。
フランスやインターネット上で閲覧できる心理学者やジャーナリストの仕事は、厳密な定義を提案することなく、この用語を使っている。この用語は、特定のステレオタイプな行動をとっている個人を指すために使われ、それ自体が可変的である。
そのような中で、誰もがひきこもりの行動として認識していることは次のようにまとめられる。
「ひきこもりとは、閉鎖的な状態に留まり、人づきあいを極力避けている個人のことである」
しかし、完全にひきこもったままだと、誰か別の人に食べ物を運んできてもらわないといけない。そこに食べ物の受け渡しという人づきあいが生まれる。これを避けては、生物として生きていけない。かたや一人で暮らしているひきこもりは、家の外に出て食べ物を得ないといけない。だから、完全にひきこもっているわけにはいかない。
ゆえに、ひきこもりは存在できないのである。
精神医学がもたらしたもの
アジア、特に日本では、集団生活のルールを無視する個人は、心理学的な見地から機能不全ないしは病的であるとされる。いっぽう西洋、特にフランスでは、集団に頼らず一人で社会と戦うことができない個人は、機能不全ないしは病的であると考えられている。
「こいつは周囲に気を配るから病気だ」
とフランスで見なされる者は、日本では完全に健康な者であると判断されるかもしれない。
また、逆に日本では、個人主義的で自立しすぎているから病気だと見なされる者は、フランスでは完全に健康だと判断されるかもしれない。
同じように例えば、オーストラリアのピチャンチャチャラ(*2)、スーダンのヌアー族(*3)、アマゾンのナンビクワラ族(*4)、アメリカ南西部のモハーヴェ(*5)などの社会から見れば、日本人やフランス人の行動は、機能不全ないしは病的であると見えるであろう。
*2. ピチャンチャチャラ(Pitjantjatjara): オーストラリア砂漠、ウルル近くに住む先住民。
*3. ヌアー(Nuer): 南スーダンのナイル川支流バハル・アルガザル川、およびソバト川近辺に居住する民族の総称。ちなみに「族 (tribe)」という社会集団の呼称は、当事者たちが矜持をもって称している事実を勘案すると、すぐさま差別に類別されるべきではなく、文脈を精査すべきである。
*4. ナンビクワラ (Nambikwara) : アマゾンに住むブラジルの先住民。グァポレ川とジュエルナ川沿いに住む。現在の人口は約1200人。
*5. モハーヴェ(Mohave):コロラド川流域にカルフォルニア州、アリゾナ州、ネバダ州などにまたがって居住するアメリカの先住民。
フランスの場合、フランスの制度はアメリカの研究者ファーバー(*6)が「自律性の欠如」と呼ぶものを自ら生み出しているため、この点が問題となっている。
*6. モーリス・L・ファーバー(Maurice L. Farber):『自殺理論』(1977)、「フランスにおける自殺 自殺ならびに生命を脅かす行動に関するいくつかの仮説」(1979)の著者。自殺という行為を社会的に研究している学者ということ以外、詳細不明。
心理学者や精神科医や精神分析医がやっていることは、医学よりも政治的な再教育に近いことが多いという例には事欠かない。
人間の行動は、支配的な階級や権力のイデオロギー、政治的教義からあまりにも逸脱している場合、それは心理的な問題である。行動規範の押しつけ、発達、進歩には暴力の行使が必要となってくる。
現代のすべての政府は、自分たちの政策を正当化するために心理学や精神医学を利用してきた。たとえばソ連の反体制派は、「潜在性統合失調症」や「妄想性人格発達症」といった診断を下されて監禁されていたのである。
フランス領だったアルジェリアのブリダの精神病院で、フランツ・ファノン(*7)は、フランス人患者の回復が早いのに対し、アルジェリア人患者の状態は悪化するばかりであることに気づいていた。
*7. フランツ・ファノン (Frantz Omar Fanon 1925 - 1961) アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家・精神科医・革命家。フランス海外県マルティニーク出身。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児。フランス国内の白人と同じか、それ以上の文化的教養を備えてフランス本国に留学したが、肌の色により黒人として扱われ、以後人種の背後にある意識の問題を探求した。日本では2021年2月NHK Eテレ「100分de名著」で取り上げられたことでも記憶に新しい。昨年のアメリカにおけるBLM運動により、再び世界から脚光を浴びている。
彼は、病院の医師によって「正常で健康である」と判断される行動は、パリのブルジョワジーのあいだで流行している行動様式であるにすぎず、自らの伝統文化から切り離されたアルジェリアの農民は、これらの外国の習慣の中で自分自身を認識することができず、そのため医師や精神科医の目には「病気」や「気違い」のように映る、と指摘している。
したがって、これらの「心理的な」「病気」の原因は社会的なものであることが考えられる。一般的にいえば、「近代社会」の発展は、19世紀以降、ブルジョアジーが発展させてきたものとは別の価値体系から来る尊厳や社会的威信を基準として生活することに慣れている人々を排除しているのである。つまり、「近代社会」の発展とは、本質的にはおしゃれで流行している商品のおびただしい消費による個人の幸福の追求である。
このような偽りの精神病ではなく、もっと本当の心理的な問題や病気が存在するのだが、それらはたいてい心理学者や精神科医たち自身が見落としたり無視したりしていることが多い。なぜならば心理学者や精神科医は、社会の中でも最も特権的な集団である知的労働者という階級に属する者として、社会体制の現状維持を望んでいるからである。そこでは、国の政治的安定のために医師の有用性は非常に過小評価されている。
実際には精神医学の60~70%は心的外傷に関係するものだが、フランスの精神科医のほとんどは心的外傷を治療する訓練を受けていない。「女性の暴力被害者保護のための省庁横断調査委員会」が第3・4年目の医学生を対象に調査を実施したところ、8割以上の医学生が暴力被害者や心的外傷のケアについて聞いたことがない、と述べたことがある。
また、この委員会が調査対象としているのは女性だけであるが、すべての年齢層の男性が死亡率を大幅に上昇させていることから見ても、最も多くの心理的影響を受けているのは男性であることに留意すべきであろう。
しかし、フランス社会は、他の多くの国の社会と同様に、男性の苦しみに関心を持つことに消極的で、しばしばそれを否認してしまっているのである。
「健康とはいえない状態」の研究
ひきこもりのような行動現象を研究するには、人の不調(*8) を研究するためのお膳立てが必要である。しかし、不調とは、なんとなくぼんやりと拡散していて、また身体に親密な感情であるため、研究するのがむずかしいこともまた確かである。
*8. 不調(仏 : mal-être / 英:ill-being):幸福や健康生活、健全性を意味する bien-être (英:wellness, well-being)の対義語。「病気」「不幸」というほどではないが、「幸福」「健康」とも胸を張って言えない、どこか「調子が悪い」「具合が悪い」などと日常生活で言うときの「悪さ」を指す。中見出しでは「健康とはいえない状態」と訳した。
自殺率などの特定の死亡原因は、アルコール依存症、薬物使用率、精神疾患などの疾病の存在を直接にあぶり出すための良い指標となるだろう。
また、貧困率、犯罪率、不平等、移入民や移住民、高等教育へのアクセスの機会、雇用や社会的進歩などへのアクセスの機会や条件など、間接的に心身の不調と結びつく指標もある。
他にも、社会の深層心理としては、背景に作用する経済成長や経済発展のような、もっと間接的な要因がある。それらは自分自身や次の世代のために、未来に希望の礎を築く能力に影響を与え、私たちの活動の意味、ひいては私たちの人生に作用する。
仕事をすることで社会を集団的に良くすることができるかどうかが問題なのである。私たちが集団や仲間に抱く信頼感は、私たちの自信にかなりの影響を与えている。
個人が組織化された社会の中で、家族、同級生、異性、学業、仕事など人間の生活の特定の側面や制度にアクセスできない場合、適応のプロセスは自分のニーズや欲望の昇華を通過しなければならない。
昔の伝統的な社会では、昇華の手段は非常に限られていた。すなわち、人生のそれぞれ主要な局面にやってくるイニシエーションや通過儀礼によって補完されたマニュアルや知的な取り引きの学習である。過去において昇華は、宗教や哲学、科学のテキストを読んで研究することによってのみ行われ、それは常に変容、すなわち個人的であり集団的な洗練を可能にした。
ところが、この昇華は今では主に文化の他の側面への市場化によって運用されている。テレビ、コミック、ビデオ、映画、ビデオゲーム、観光といったものである。このような文化的生産の多くは、粗末で表面的ではあるが、簡単にアクセスできるものであり、アクセスする側の専門性を必要としないため、模倣と消費以外にやることがない個人にとっては、たやすく自己陶酔の罠となり得る。
その仕組みは、一定の条件が満たされた場合、とくに支援や社会的統合が不足している場合や、既往の心理的問題がある場合には、社会的隔絶、身体的監禁へと変化し、文化的・精神的監禁へとつながる可能性がある。
しかし、それは本人が情報に基づいて選択していることでもある。
鴨長明 (*9) が山中に庵を編んだとき、サロフのセラフィム (*10) が熊たちが出没する森で禁欲の生活を追求したとき、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー (*11) がウォルデンの池の近くに小屋を建てたとき、彼らは何も持たず、孤独で、すべてのものから遠く離れていた。
*9. 鴨長明(かものちょうめい / 1155 - 1216)神職の息子として京都に生まれ、上皇などからも信任が厚かったが、出世競争に敗れ、出家して庵を編み、『方丈記』を著す。
*10. サロフのセラフィム(Seraphim of Sarov / 1754or1759 - 1833)ロマノフ朝ロシア帝国のクルスクに生まれ、18世紀半ばにロシアで盛んに復興されていた荒野修道院運動の担い手の一人となり、森に深く分け入って独りで修業、小さな小屋に住み隠者として25年の間、自給自足の生活で過ごした。ロシア正教会の聖人。のちにカトリック教会からも列聖された。
*11. ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817 - 1862)は、アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者。マサチューセッツ州に生まれ、ハーバード大学卒業後、家業の鉛筆製造業、教師、測量の仕事などにも従事したが、生涯を通じて定職につかなかった。ウォールデン池畔の森の中に小さな丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月間送る。代表作『ウォールデン 森の生活』(1854年)は、その記録をまとめたものであり、その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。
それなのに、彼らの思考、活動、生活はすべて社会的なものになっている。
いったい何が一部の人々を駆り立て、存在しないものを求めたり生産させたりする原動力になっているのだろうか。それは人生に何かが足りないという感覚、後悔、苦しみ、満たされない欲望、この世界にけっして満足できない、あるいは心が落ち着かないままになってしまうような、すべてのものだろう。
世界のすべての金は、奈落の底に直面する存在の苦悩に対して、時には何もできないのである。
人間に普遍的な生きづらさ
世界は生きづらい。
聖書の中のヨブ記とコーヘレトの書は、「太陽の下では何も新しいものはない」と私たちに警告している。
エミール・シオラン(*12)が書いたように、根本的な不利益とはこの世に生まれてくることであるが、今やすでに生まれてしまった以上、人は人間と人間たちの臭いを避けて、ひっそりと夜に生きることで帳尻を合わせようとすることができる。他のすべてと同じように、それは一時的な解決策にすぎないのだが。
*12. エミール・シオラン(Emil Cioran / 1911 - 1995):哲学者、エッセイスト。ルーマニア生まれ、ブカレスト、ベルリンに住み、パリで没した。ルーマニア語とフランス語で作品を発表し、その哲学的な悲観論で知られており、苦悩、腐敗、ニヒリズムの問題を扱いつづけた。シオランを特集した本誌 HIKIPOS の次の記事参照。
その場合、死さえ逃げ道でないかもしれない。死によって、地獄で永遠に苦しまなければならないか、死体を食べる虫に生まれ変わるか、もっと悪い状態になるという人々もいる。
多くの思想家がこの点に同意している。
「人間は憎しみに満ちており、世界は地獄である。」
すべての美と快楽は、無限の苦しみと醜さで贖われている。私たちは金を肥やしにする悪い錬金術師である。死さえも今では価値が下げられ、意味のないものになっている。
ジャン・リュック・ナンシー(*13)は、現代ほど死というものを不必要で不毛にした文化はかつてなかったと指摘している。
私たちの社会も文化も、もはや生き方も死に方も教えてくれない。これこそが、ハンス・ベルマー(*14)が「もう役に立つことは何もしない」と決心した理由であり、またメルヴィルの描いたバートルビー(*15)がただ「やらずに済めばありがたいのですが」とつぶやく理由である。
おそらく、何よりもまず否定されるべきは、幸福のイデオロギーなのではないだろうか。
『源氏物語』(*16)の中で紫式部は、私たちがとかく面白くないと思うにもかかわらず、心地よく快適でトラブルのない守られた生活を求める傾向に疑問を呈している。反対に、充実した人生をもたらすのは、後悔や苦しみや失敗だというわけである。
紫式部は幸せを追いかけるのではなく、春風に散った花のように過ぎ去っていく人生の、心が痛む感覚をもう少しだけ楽しむために生き続けてはどうか、と私たちに提案しているのである。
*13. ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy / 1940 - ): フランスの哲学者。ジャック・デリダとその脱構築の手法の強い影響を受けつつ独自の哲学を展開しており、いわゆるポスト構造主義以降のフランス現代思想の重要人物の一人と目されている。
*14. ハンス・ベルメール(Hans Bellmer / 1902 - 1975)は、ドイツ出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家。ナチ党の政権掌握後の1930年代中頃に等身大の創作人形を制作・発表したが、何か有用な物を制作すればすべて時の権力であるナチスのために使われることから、「役に立つことは何もしない」と宣言したことで知られる。
*15. バートルビー(Bartleby): 1853年アメリカの作家ハーマン・メルヴィルが発表した短編小説「代書人バートルビー (Bartleby, the Scrivener)」の主人公。 ある法律事務所にバートルビーという青年が就職する。しかし彼は仕事を命じられると「やらずに済めばありがたいのですが(I would prefer not to)」と丁重に拒否する。仕事をしない彼に、雇用者である語り手は解雇を言い渡すが、バートルビーは「去らずに済めばありがたいのですが」と言って事務所から出ようとしない。しまいには警察を呼ばれ、刑務所で食事を拒んだまま息絶える。
*16. 紫式部『源氏物語』第41帖「幻」の冒頭。
「春の光を見たまふにつけても、いとどくれ惑ひたるやうにのみ、御心ひとつは、悲しさの改まるべくもあらぬに、外には、例のやうに人びと参りたまひなどすれど、御心地悩ましきさまにもてなしたまひて、御簾の内にのみおはします。兵部卿宮渡りたまへるにぞ、ただうちとけたる方にて対面したまはむとて、御消息聞こえたまふ。
わが宿は花もてはやす人もなし
何にか春のたづね来つらむ
宮、うち涙ぐみたまひて、
香をとめて来つるかひなくおほかたの
花のたよりと言ひやなすべき
紅梅の下に歩み出でたまへる御さまの、いとなつかしきにぞ、これより他に見はやすべき人なくや、と見たまへる。花はほのかに開けさしつつ、をかしきほどの匂ひなり。御遊びもなく、例に変りたること多かり。……」
(了)
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◆◇◆ プロフィール ◇◆◇
ルシアン・クエイリュー フランスのひきこもり当事者。大学では哲学と社会科学を専攻した。卒業後、これまで就いた職業は短期講師、工場労働者。
ぼそっと池井多 東京の中高年ひきこもり当事者。多様な形で断続的に35年ひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)。
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